第158節『直虎の支援』
第158節『直虎の支援』
井伊谷城の奥座敷。障子は固く閉ざされ、灯りはわずかな油火のみ。外の虫の声すら聞こえぬ静けさが、ここに集う者たちの緊張を際立たせていた。
直虎は几帳の前に座し、目の前の地図に視線を落としている。その傍らには、老兵・重吉が控えていた。彼は足軽上がりにすぎぬ身だが、源次と共に幾度も死地をくぐり抜けてきたことで、直虎からも「耳」として信を得ている。
そこへ、旅装の商人や山伏姿の者たちが次々と現れ、低い声で報告を重ねていった。彼らは、直虎が自らの手で組織した井伊谷独自の諜報網だった。戦国の世において、商人や山伏は諸国を自由に往来できる数少ない存在であり、彼らを通じて敵地の情報を得ることは、多くの大名が用いた重要な戦略であった。
「武田の陣屋にて、味噌の減りが尋常ならぬと。兵糧の米も日ごとに少なくなっております」
「かの馬場信春様、信玄公の信頼厚き名将なれど、その戦ぶりは常に正攻法。奇策や謀略を何よりも嫌う気質と聞き及んでおります」
「兵たちの間では“遠江の山に鬼神あり”と囁かれ、士気の乱れが見え始めております」
断片的な情報が次々と地図の上に置かれる。直虎は一つひとつを聞き届け、筆をとり、紙片に書き留めていく。その横顔は、領主としての毅然さと、一人の女としての祈りを同時に帯びていた。
「……源次ならば、この些細な変化から、いかなる策を見出すであろうか」
独りごちる直虎に、重吉が畳に手をつき、一歩下がりながら、しかし案じる気持ちを抑えきれずに口を開いた。
「恐れながら、直虎様。ご心配には及びますまい。あの若造は、昔から妙な勘の働く男でしてな。わしらのような陸の人間には見えぬ潮目を、いとも容易く読んでしまう。このような些細な報せこそ、あの男の知恵を動かす一番の種になりましょうぞ」
直虎は筆を止め、静かに頷いた。その声色には、彼の無礼を咎める響きはなかった。
「ならば、なおのこと。わらわが拾わねばならぬ。……源次を死なせるわけにはいかぬのだ」
重吉は深く頭を垂れ、その言葉の重みに息を呑んだ。
その頃、遠江の前線。夜営の火がちらつく野に、源次は一羽の鷹から小さな竹筒を受け取った。中に巻かれていたのは、細やかな文字で綴られた直虎の密書である。
火に照らし、彼は目を走らせた。
(……兵糧の減りが早い。そして、敵将・馬場信春は奇策を嫌う正攻法タイプか……)
その一文に、源次の手が止まった。
(……本当だったのか)
彼の脳裏に、かつて読み耽った軍記物『甲陽軍鑑』の記述が鮮やかに蘇る。そこには、馬場信春が常に戦の先陣を駆け、退き戦では必ず殿軍を務め、生涯で一度も傷を負わなかったという伝説が記されていた。書物の中の彼は、まさに武士の鑑、正々堂々を絵に描いたような人物だった。
(本の中の英雄が……今、生きて、俺の目の前にいる。そして、直虎様が送ってくれたこの生の情報は、俺が本で読んだ通りの人物像を裏付けている……!)
鳥肌が立った。歴史研究家として、これほどの興奮はない。書物の中の乾いた文字が、血の通った生身の人間の情報として、今、自分の手の中にある。
(なるほど。ならば武田は、我らのゲリラ戦に苛立ち、いずれは力でねじ伏せようと焦るはず。その焦りを誘う策――これは好機になる)
冷静な軍師としての思考が働く。
同時に、胸の奥から熱がこみ上げてきた。
(直虎様……! こんな細かいことまで……! 俺のために、どれだけ無理してくれてるんだ……! 尊すぎる……!)
推しの献身に、心が揺れる。だが、さらに深いところからは、強い覚悟が響いてきた。
(この密書の一文一文が、命懸けで掴まれたものだ。絶対に無駄にはしない。この情報で、必ず勝つ。そして、直虎様を守り抜く!)
源次の目に、焚き火の光が宿る。まるで天から戦場を見下ろしているかのように、地図と現実が重なり合い、未来の戦局が鮮明に描かれていった。
再び井伊谷。
直虎は新たな密書をしたため、蝋で封をすると、密使に手渡した。
「行け。必ず、源次のもとへ」
その横顔には、領主としての冷静さの奥に、ただ一人の若武者の無事を祈る切なる想いが滲んでいた。
重吉は静かにその姿を見つめ、胸中でつぶやいた。
(直虎様も……あの若造に賭けておられるのだな。わしと同じように)
闇夜に駆け出す密使の背を見送りながら、井伊谷と前線を結ぶ、目に見えぬ絆が確かにそこにあることを、誰もが感じていた。