第157節『忠勝の疑念』
第157節『忠勝の疑念』
雨上がりの浜松城に、湿った土の匂いが漂っていた。濡れた石垣の表面を水滴が伝い落ち、空気はまだ重く冷たい。城の一隅、自室に籠もった本多忠勝は、愛槍・蜻蛉切を膝に横たえ、布で丁寧に磨いていた。槍身に布が擦れる乾いた音が、静かな室内に繰り返し響く。
忠勝の武骨な手は油に濡れ、鋼の冷たい質感を確かめるように柄を握りしめている。
――源次、か。
槍先を磨きながら、忠勝は低く呟いた。城内は久々に明るい声で満ちている。兵どもが意気を取り戻したのは、井伊の遊撃隊が次々に挙げる戦果ゆえだ。犬神の谷での奇襲、橋の破壊、伝令の捕縛……どれも、正面から戦わずして敵の勢いを削ぐものばかり。
「手柄は手柄だ。認めねばならん。だが……こんな戦で良いのか?」
布を握る指先に力がこもる。武士は敵と正々堂々、槍を合わせ、血を分かち合う中で勝敗を決する。それこそが武人の誉れ。だが、源次の策は陰のごとく敵を突き、血が見えぬ形で戦果を奪う。
「死んでいった者たちは、こんな戦を望んでいたのか……」
胸の奥に沈んだ疑念を振り払うように、忠勝は立ち上がった。答えを求めねばならぬ。彼は槍を背に負い、足を向けたのは家老・酒井忠次の部屋であった。
酒井忠次の部屋では、地図が広げられていた。
「おぬしがわざわざ訪ねてくるとは珍しい。何か胸に重きものがあるのだろう」
「忠次殿、俺にはどうにも解せぬ」
忠勝は膝をつき、分厚い指で駒をつまみ、地図の上に置いていく。犬神の谷、天竜川の橋、伝令を捕らえた村――一つ一つ、源次の戦果の地を示した。
「なぜこうも都合よく敵の補給隊が見つかる? なぜ最も効果的な橋を、寸分違わず壊せる? なぜ伝令が通る道を、あの男は先回りできる?」
駒を並べるごとに、忠勝の声は低く鋭さを増していく。初めは感情に任せた問いだったが、地図に浮かび上がる線を見つめるうちに、その瞳の色が変わった。
「待て……これは……」
彼の脳裏で、点が線に繋がっていく。犬神の谷での襲撃は、大雨で敵が動きを止めることを読んでいたから。橋の破壊は、その後の増援を遅らせるため。伝令を捕らえたのは、我らの目を別の方向に逸らすための陽動。
「……偶然ではない。全て、一つの筋書きの上に置かれておる」
忠勝の背筋に、ぞくりと悪寒が走った。幾多の戦場を駆け抜けてきた武人としての勘が告げていた。これはただの奇策ではない。全てを見通した上での、計算された連鎖だ。
「まるで……」
忠勝は言葉を呑み込み、地図を睨んだ。槍の柄を握る掌に、じっとりと汗がにじむ。「まるで天から戦場を見下ろし、駒を動かしているかのようだ」
沈黙が落ちる。酒井忠次は茶をすすり、瞼を細めた。
「……さあな。されど殿は、その“天の目”に賭けられたのやもしれぬぞ」
含みのある一言が、忠勝の胸をさらに重くした。彼は言葉を失い、ただ地図を睨み続けた。怒りではない。嫉妬でもない。武人としての直感が告げるのは、ただ一つ。
――畏怖。
「あの男……一体、何を見ているのだ……」
槍の柄を握る手が小さく震えた。
その夜、野営地。薄暗い火明かりの下、源次は地図を広げていた。
この時代の戦は、天候、地形、そして人の心の動きという三つの要素が複雑に絡み合う。源次は、転生者としての知識――すなわち、過去の膨大な戦例や気象学の基礎知識という「史実の地図」を持っていた。しかし、それだけでは戦には勝てない。刻一刻と変わる現場の状況、敵将の性格、兵の士気といった「今の情報」がなければ、その地図もただの紙切れだ。
その重要な「今の情報」を、井伊谷にいる直虎が届け続けていた。それは、決して魔法のような力ではない。彼女が領主となって以来、地道に築き上げてきた情報網の賜物だった。
そもそも井伊家のような小さな国は、今川や武田といった大国の狭間で常に滅亡の危機に晒されてきた。生き残るためには、敵がいつ、どこから、どう動くのか、その情報をいち早く掴むことが何よりも重要だったのだ。
直虎はその経験から、領内を自由に行き来できる商人や、山道に詳しい山伏、さらには人の屋敷に薬を届ける薬師たちにまで金子を与え、彼らを井伊家の「耳」や「目」として育て上げていた。彼らが命がけで集めた「武田の兵糧がどこに集まっている」「あの武将は短気だ」といった断片的な情報が、定期的に源次の元へ届けられていたのである。
源次は、直虎からの密書を胸に抱き、静かに呟いた。
(史実という巨大な地図は、敵が進むであろう道を教えてくれる。だが、その道をいつ、どれだけの速度で進むのかは、直虎様が長年かけて築き上げたこの情報網なくしては読めない。俺の力は、半分は井伊の皆が作ってくれているものだ)
源次の眼差しは、忠勝の知らぬ明日を射抜いていた。