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第156節『家康の再評価』

第156節『家康の再評価』

 雨はなお止まず、浜松城の瓦を叩き続けていた。

 奥まった一室、蝋燭の炎に照らされた机に向かい、家康は重く沈んだ顔を伏せていた。


 夢に魘され、幾度も目を覚ましては眠れぬ夜を過ごしている。

 討ち死にした家臣たちの顔が、瞼の裏に浮かぶ。

「なぜ見殺しにしたのですか」「殿のお考えは、間違っていたのでは……」

 幻聴とも妄念ともつかぬ声が、暗闇の中で囁きかける。

 家康は唇を噛み、己の拳を机に叩きつけた。

「儂のせいだ……儂が武田を侮ったゆえに……!」

 拳の甲から鈍い痛みが走り、その痛みすら甘んじて受ける。

 敗将の烙印が、肉体と魂に刻まれていくようだった。


 襖が静かに開く音がした。

「殿、井伊の者より報告が届きました」

 声の主は、酒井忠次である。

 彼の声音は低く、湿った香の匂いに混じって外の土と雨の気配を連れてきた。


 家康は顔を上げぬまま、吐き捨てるように応えた。

「また鼠のような働きか……聞かぬ」

「しかし、戦の行方に関わる報でございます」

 忠次は膝をつき、封を切った書状を広げる。


 最初の報告は、犬神の谷での小荷駄隊襲撃。

「敵の兵糧を焼き払い、馬を奪いました」

 家康は嗤う。「賊徒の真似事よ。武士の誉れを汚すだけだ」

 次の報告は、伝令の捕縛。「偽の情報を持たせ、敵を惑わしております」

 家康の眉が僅かに動く。「……ふん、狡猾なことよ」


 さらに橋の破壊、夜襲による混乱、そして武田の精鋭部隊を壊滅させたとの報せ。

「……なに……精鋭部隊を、たった一人でか?」

 蝋燭の炎が揺れ、彼の瞳に不意の驚きが走った。

 指が書状を握りしめ、紙がくしゃりと音を立てる。

(馬鹿な……儂が正面から挑んで敗れた精鋭を、あの井伊の降将が……!)

 嫉妬と憤怒が胸を焼く。机に拳を叩きつけた。

「小癪な……儂の顔に泥を塗るつもりか!」


 だが、忠次は静かに続けた。

「城内の兵どもも、この報せを聞いて士気を取り戻しつつあります。雨に沈んでいた空気も……変わってまいりました」

 その一言は、家康にとって決定的な一撃だった。


 忠次が退出した後、家康はひとり地図の前に立った。

 蝋燭の灯が駒を照らし、源次の襲撃地点を浮かび上がらせる。

 犬神の谷、橋、敵陣の側面――すべてが要を突いていた。

 兵糧を削り、情報を攪乱し、恐怖を煽る。まるで潮の満ち引きを読むかのごとく、戦局の流れを掴んでいる。

(……あの男の言う通りだった。持久戦こそ正解……儂は、武人としての矜持に囚われ、大局を見誤ったのか)

 自らの過ちが、重く胸を圧した。勝利への焦り、武勇への固執――それが判断を曇らせ、多くの命を奪った。


 深く息を吐き、窓の外を仰ぐ。

 降りしきる雨の音が、遠く兵たちのざわめきと混じり合って聞こえる。

 その中で、家康は低く呟いた。

「……あの男の潮読み、まこと当たるわ」


 それは敗軍の将が初めて示した、認めざるを得ない敗北の告白だった。

 源次はもはや、忌々しい陪臣ではない。

 戦場の流れを読む稀有な謀将ぼうしょうとして、将である己が直視せね-ばならぬ存在となった。

 蝋燭の炎が揺れ、家康の影を長く歪める。

 その影の中に、かすかな再生の光が宿り始めていた。

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