第155節『連合軍の変化』
第155節『連合軍の変化』
雨は止む気配を見せず、浜松城の屋根瓦を絶間なく叩き続けていた。
薄暗い広間には負傷兵の呻き声が満ち、薬草と血の匂いが入り混じって鼻を刺す。
徳川勢の兵も井伊の兵も、肩を落とし、空を見上げる力さえ失っていた。
「……またひとり、息を引き取った」
治療所の隅で、若い兵が小さく呟いた。
(昨日は三郎、今夜は太吉……俺たちは、ただ犬死にするためにここに集められたのか)
無力感は鉛のように身体を押し潰し、指先から力を奪っていく。
突然、雨音を切り裂く足音が城内に響いた。
「伝令! 伝令にございます!」
門をくぐった若い武者の姿は泥と汗にまみれ、顔は興奮で赤く火照っていた。
「犬神の谷にて、敵の小荷駄隊を奇襲! 兵糧の一部を焼き払いました!」
広間にざわめきが走った。
沈黙しかなかった空気に、初めて異なる音が混じる。
「小荷駄……?」「臆病者の真似事だ。武士の戦とは言えん」「そんなことで戦局が変わるものか」
兵たちは顔を見合わせ、半信半疑の表情を浮かべた。
だが、伝令の背にまとわりつく土と風の匂いが、確かな戦場の気配を伝えていた。
翌日。
「伝令! 敵の伝令を捕縛!」
その声は、血と薬草の匂いが漂う治療所にまで響いた。
さらに翌日。
「橋を破壊、敵の進軍を大きく遅らせました!」
またある日は、「夜襲にて敵陣に混乱を与え、多数の損害を与えたとの由!」
報せが届くたび、沈んでいた兵たちの目に、少しずつ光が宿っていいった。
(まさか……)(あの武田が、俺たちの知らぬところで血を流している……?)
心の奥に芽生えた囁きは、やがて声となって広間を揺らした。
「俺たちは負けてばかりじゃないのかもしれんぞ」「井伊の策、侮れぬ……」「次は、俺たちの番だ!」
虚ろだった瞳が鋭さを取り戻し、握る槍に再び力がこもる。
重苦しい雨音と呻き声しかなかった城内に、確信めいたざわめきが満ち始めていた。
その様子を、城壁の上から大久保忠世と中野直之が眺めていた。
忠世は眉をひそめ、口を結んだまま動かない。
(忌々しい……。井伊の策が、これほどまでに兵を鼓舞するとは。だが事実、兵たちの目に光が戻っておる。儂が信じてきた武士の道は、誤りなのか……? いや、そんなはずは……!)
苦悶と否定が心を行き来し、表情は険しく歪んだ。
彼にとって、このゲリラ戦の成功は、素直に賞賛できるものではなかった。この時代の武士の誉れとは、あくまで敵将の首級を挙げること、一番槍の功名を立てることにある。敵の背後を突き、兵糧を焼くといった戦法は、戦の勝敗には貢献すれど、個人の手柄としては評価されにくい「汚れ仕事」。その「汚れ仕事」によって味方が活気づくという現実が、彼の信じる「正々堂々とした戦」を否定されたかのような、複雑な屈辱感を覚えさせていたのだ。
一方、直之は口元を僅かに緩めた。
(見事なものだ、源次殿。これで井伊の兵も救われよう。だが……あの男の才覚が、徳川中に疎まれぬとも限らぬ)
彼の胸には称賛と同時に、新たな懸念が芽生えていた。
雨脚は弱まらぬ。
しかし、浜松城を覆っていた重苦しい絶望の色は、僅かながら晴れ始めていた。