第154節『見えざる敵』
第154節『見えざる敵』
夜は長く、風は冷たい。
武田の陣に張られた幾つもの焚火の周りで、兵たちは肩を寄せ合っていた。
「聞いたか……? 朱塗りの鎧を着た精鋭たちが、一人の鬼に蹴散らされたって」
「いや、三十人だ。三十人を槍一本で屠ったと……」
「違う、五十だ。しかもその鬼は赤い眼を光らせて、霧の中から笑っていたらしい」
噂は焚火の炎のように広がり、尾ひれをつけて燃え盛る。
古参の一人が、低く吐き捨てる。
「馬鹿を言え。ただの若造の虚勢にすぎん」
だが、その声は震えていた。
周りの者たちも黙り込み、薪のはぜる音が妙に大きく響く。
――ホウ、と梟の鳴き声。
「ッ……!」
全員が一斉に槍を握った。
焚火に照らされた顔は蒼白で、目の奥は怯え切っていた。
翌日、斥候の一隊が森に入った。
木々は密集し、昼なお暗い。風が吹くたび枝葉がざわめき、影が走る。
「夜の噂に惑わされるな!」
隊長が声を張り上げる。だが、その手もわずかに震えていた。
「だ、誰かいる!」
若い兵が木陰を指差した。全員が一斉に構える。
――ガサッ。
飛び出したのは鹿だった。
「鹿か……」
安堵の吐息が洩れる。だが、次の瞬間。
ヒュッ。
一本の矢が森の奥から飛んできて、誰にも当たらず木に突き刺さった。矢羽根には、見慣れぬ井桁の紋が描かれている。
全員が凍りつく。見られている――その事実だけが、冷たい恐怖となって彼らを支配した。
彼らは探索を打ち切り、成果なく陣へと引き返した。
夕刻、馬場信春は陣を巡った。
兵たちの顔は土気色で、瞳に光がなかった。
槍は泥にまみれ、鎧の紐は解けかけ、武具の手入れはおろそかだ。
耳に噂が入る。
「あの山には恐るべき軍師がいるらしい……」
「人の心を読み、未来を見通す妖術を使うとか」
「あの鬼神を操っているのも、その軍師の術だ……」
信春の眉間に深い皺が刻まれる。武では勝っているはずだった。だが、兵たちの心は……既に負け始めている。彼は、かつて信濃の国衆を攻めた際の記憶を思い出していた。あの時も、土地の者たちは地の利を活かし、執拗なゲリラ戦で我が軍を苦しめた。だが、これほどまでに兵の心が揺さぶられることはなかった。
恐怖が伝染し、士気が日に日に萎えていく。この目に見えぬ病こそが、大軍を内から蝕む最も恐ろしい敵だと、彼は長年の経験から知っていた。このままでは、戦う前に軍そのものが崩れかねない。彼はそう認めざるを得なかった。
幕舎に戻り、地図を睨む。
焚火の灯が揺れ、駒の影が歪んだ。
「……武で崩せぬなら、知で潰すか。えげつない手よ……」
その声は低く、夜風にかき消された。