第153節『新太の武勇』
第153節『新太の武勇』
霧は濃く、灯火の光すら届かぬ。
小荷駄を守るため選りすぐられた赤備えの精鋭十数名は、槍を構えて立っていた。彼らは単なる護衛兵ではない。武田家中でも武勇に優れた者たちで構成され、馬場信春自身が「鼠」を誘い出すために配置した、いわば罠であった。
「鼠など恐れるに足らん。出て来れば一息で屠ってくれる」「殿直々の命だ。油断なく進め」
彼らは疲労しつつも、なお自らの腕と鎧を信じていた。
鬼美濃・馬場信春の威令を背負う誇りが、恐怖を押し殺していた。
――その時。
足音もなく、霧の奥から一人の男が現れた。
槍を肩に担ぎ、悠然と歩む。
「ひとり……だと?」「戯けめ。討ち取れ!」
数人が一斉に駆けた。槍先が霧を裂いた瞬間――。
ヒュッ、と風が鳴る。
次の刹那、先頭の二人が胴ごと薙ぎ払われ、鎧もろとも吹き飛んだ。
鮮血が霧に溶け込み、地を濡らす。
「な……何だ……!? 何が起きた!」「おのれ、囲め!」
声が乱れた。恐怖が隊列に走る。
だが新太は疾風のごとく槍を振るった。
突きは稲妻のように鋭く、薙ぎ払いは大木を薙ぎ倒すがごとく重い。
石突が振り下ろされれば、兜ごと頭蓋が砕け、骨の響きが地を伝った。
兵の叫びは短く、血潮と共に途絶えてゆく。
――崖上。
源次はその光景を見て、三つの声を同時に抱えていた。
(よし……敵の護衛は散開した。新太、今だ! 隊長を狙え!)
冷徹に戦局を読む軍師の思考。
(うおおお! やっべぇ……新太強すぎだろ! 何だよあの速さ! 人間技じゃねえ! 俺の最強の駒が、想定の百倍はヤベえ! 鳥肌止まらん!)
オタク的興奮が、心臓を打ち鳴らす。
(これなら……直虎様を守れる。この武と、俺の知略が合わされば……俺たちは無敵だ!)
推しを守るための揺るぎなき確信。
新太は霧の中で踊った。
敵の槍は届かぬ。届いたと思えば弾かれ、逆に返す一撃で兵が宙を舞う。
血の匂いが霧に満ち、鉄の味が鼻を刺す。
兵らは武具を握る手を震わせ、次第に声を失っていった。
「ひ、人ではない……鬼だ……」「に、逃げろ!」
最後に残った者たちは槍を捨て、泣きながら駆け出した。
背を見せた彼らを追うことなく、新太は槍を振り払い、滴る血を霧に散らした。
――その頃、本陣。
「申し上げます!」
震える足軽が、馬場信春の前に膝をついた。
「小荷駄の隊……壊滅……いたしました。たった一人に……槍一本で……! その働き、まるで鬼神……いえ、若き日の御館様(信玄公)をも超える怪物にございました!」
馬場は言葉を失い、地図の上を凝視する。
(鼠を操る軍師……そして、その駒は鬼神……か)
灯火が揺れる。
(……おかしい。何かがおかしい。徳川に付いた国衆など、これまで幾度も蹴散らしてきた。だが、この執拗なまでの抵抗、そして鬼神のごとき武勇……。これは、ただの国衆の動きではない。まるで別の何かが、奴らを動かしているようだ)
信春の眉間に刻まれた皺が深くなり、背に冷たい汗が流れた。
見えぬ敵の刃が、自らの喉元に突きつけられているような――そんな錯覚。
その夜、武田軍に新たな噂が広がり始めていた。
――遠江の山中に鬼神あり、と。