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第152節『第二、第三の矢』

第152節『第二、第三の矢』

 武田の陣は、馬場信春の厳命によっていつになく張り詰めていた。

 松明が風に揺れ、影が大地を這う。槍を握る兵らの指は汗で湿り、鎧の下で背筋に冷たいものが走る。


「……今宵こそ、何事も起こるまい」

 伝令役を務める若い足軽は、そう自らに言い聞かせていた。

(鬼美濃様のご命令で警備は倍。斥候も巡らせた。……これ以上、付け入る隙などあるはずがない)

 しかし、その心の奥底では別の声が囁く。

(また来るのではないか? あの闇の中から……)


 夜霧が濃く立ち込める道を、二騎の伝令が走っていた。馬の鼻息が白く散り、革袋に収めた書状が鞍に揺れる。浜松城へ向かう本隊への、重要な軍令を運ぶ途中であった。

 突如、矢羽根が闇を裂いた。

 ヒュッ――ズドン!

 前を走っていた伝令が声もなく落馬し、喉から血を噴いた。

 残ったひとりは慌てて槍を構え、暗闇に目を凝らす。

「どこだ……!? 出て来い!」

 だが返答はなく、背後の闇から影が音もなく迫る。

 気付いた時には遅かった。喉を締め上げられ、地面に叩きつけられる。


 数刻後――。

 陣に戻った「伝令」が、息を切らせながら馬場の幕舎に偽の書状を届ける。

 中身には「徳川本隊、東へ移動の気配あり」とある。

「……ふむ」

 馬場は眉をひそめた。どこか腑に落ちぬ。だが伝令の面差しに違和感はなく、証拠もない。疑念を胸の奥に沈めるしかなかった。この時代の情報伝達は、伝令の口伝か書状に頼るしかない。ひとたび伝令が討たれ、書状が奪われれば、偽の情報が本物として紛れ込む。その真偽を見破るのは至難の業であった。


 夜明け前。

 天竜川に架かる橋を守る足軽二人。霧が深く、対岸は影も見えない。

「静かだな」「……逆に気味が悪い」

 ぽちゃん、と水音が響く。二人は身構える。

 だが音は対岸の石が転がっただけのように見えた。

 緊張が緩んだ刹那、霧の下――橋桁の影で鋸のきしむ音がひそかに走っていた。夜陰に乗じて川を潜り、橋の支柱に細工を施す。それは、源次が漁師の知識を応用して考案した、音を立てずに木材の強度を奪うための破壊工作だった。

 やがて霧が晴れ、橋は何事もなかったかのように見える。

 だがその日の昼、重装歩兵の一隊が橋を渡った瞬間、轟音が大地を揺るがした。

 ズドォォォン――ッ!

 支柱が折れ、橋板が崩れ落ちる。兵らは悲鳴を上げて濁流に呑まれ、馬もろとも川へ消えていった。


 その夜。

 野営地の兵らは眠れなかった。

 焚火は小さく燃えるが、目を閉じればすぐに闇から声がする気がする。

 突如、遠くの山から鬨の声が響いた。「オォォォ――ッ!」

 全員が飛び起き、槍を握りしめる。だが敵影はどこにもない。

 静寂が戻ると、今度は太鼓の音が遠くで鳴り始める。

 再び飛び起き、構える。だが、またも敵は現れぬ。

 それが何度も繰り返される。これは心理戦。敵に休息を与えず、神経をすり減らさせるための、古典的だが極めて有効な嫌がらせであった。

「くそっ……もう勘弁してくれ」「敵は……俺たちを狂わせに来ているだけだ」「いや、あれは人ではない。山の物の怪だ……」

 兵らの瞳には恐怖と疲労が色濃く滲む。


 幕舎から出てきた馬場信春は、忌々しげに闇を睨んだ。

 拳を固く握り、低く吐き捨てる。

「……心を折りに来たか。えげつない手を……」

 風が唸り、焚火の火が揺れる。

 闇は深く、敵の姿は見えない。

 だがその見えざる矢が、確かに武田の軍心を蝕み始めていた。

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