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第151節『武田の苛立ち』

第151節『武田の苛立ち』

 武田軍本陣の陣幕の中には、重苦しい沈黙と香の煙が漂っていた。革と鉄の匂いが鼻を突き、外では風が帆布を叩き、遠くの馬のいななきが低く響いている。

 卓の上には広げられた遠江の地図。幾つもの駒が置かれ、信玄が描いた壮大な進軍路を示していた。

 その地図を指先でなぞりながら、武田四天王の一人、馬場信春は冷ややかに口元を歪める。


「徳川の若造も、それに群がる国衆どもも、所詮は児戯よ」


 「不死身の鬼美濃」と敵味方から恐れられるこの老将にとって、ここまでの戦は勝利が約束された盤上の遊戯に過ぎない。そもそも、此度の遠江侵攻は、来たるべき西上作戦の地ならしに過ぎぬ。信玄公が、その重要な前哨戦の指揮を譜代の重臣である自分に任せたのは、徳川の力を侮らず、確実にこの地を削り取れという厳命に他ならなかった。徳川などは信玄公の威光の前にいずれ膝を屈する駒。それに付随する小城の主など、踏み潰す価値すらない存在。そう信じて疑わなかった。


 だが――その慢心を打ち破るかのように、陣幕の入口が荒々しく開かれた。


「も、申し上げますっ!」


 泥と血にまみれ、息を切らした伝令が膝を突く。

「昨夜、犬神の谷にて我が小荷駄隊が、何者かに襲われ……兵糧の一部が焼かれ、馬が散逸いたしました!」


 陣幕の空気が一瞬、止まった。


 馬場は眉をわずかにひそめただけで、冷静に答える。

「……落ち武者狩りか、地元の野盗であろう。警備を固めよ」

 声は重く響いたが、その奥にはまだ余裕があった。この程度の損害で、武田の大軍が揺らぐことはない。


 しかし、間を置かずに二人目の伝令が転がり込む。

「西の伝令が二人……行方不明に! 斬られた形跡ありとのことにございます!」

 続いて三人目。

「天竜川の渡し場近くの橋が、何者かに壊されておりました!」


 凶報が畳みかけるように重なる。鎧の擦れる音、伝令の掠れ声、将兵たちの張り詰める息遣い。

 香の煙に血と泥の匂いが混ざり、陣幕の空気はどす黒く変わっていく。

 馬場の表情から余裕が消え、眉間には深い皺が刻まれた。


「……ちっ」

 彼は拳を握り、卓を打ち据えた。地図の駒が揺れ、乾いた音が陣幕に響き渡る。

「ええい、五月蝿い! 一体どうなっておるのだ!」


 怒声が幕を震わせた。その気迫に、居並ぶ将兵が息を呑む。

 百戦錬磨の馬場は、すぐにその激情を押し殺すと、深く息を吐き、地図の上に手を伸ばした。

「……待て」

 彼は冷静に駒を動かし、報告のあった地点を示していった。犬神の谷、西の伝令路、天竜川の橋。

「被害は小さい。だが、狙われている場所が正確すぎる。兵糧、伝令、橋……いずれも我らの進軍を遅らせる要所ばかりだ」

 地図を指先でなぞる感触が、じわりと不快な冷気に変わっていく。

「これは……野盗の仕業ではない。統率された意志がある。こちらの動きを読んだ上で、的確に刃を突きつけてきている」


「おそらく、徳川の忍びかと」ひとりの部将が進言する。

 馬場は首を横に振った。

「いや……違う。服部党のやり口ならば、もっと密かに毒を盛り、暗殺を狙うものだ。だが、これはあからさまに我らの喉笛を狙いにきている。軍としての動きだ。小規模ではあるが、確かな統率を持つ軍が……我らの背後に潜んでおる」


 陣幕に沈黙が落ちる。外の風音すら、ひどく遠くに聞こえる。

 馬場は唇を噛み、低く呟いた。「鼠が……我らの足元を嗅ぎ回っておる」

 しかし、それはただの鼠ではない。

「虎の喉笛を狙う術を知る、狡猾な鼠だ……」

 部下たちの背に冷たいものが走った。


 彼の脳裏には、徳川に味方する遠江の国衆たちの顔がいくつか浮かんだが、これほどまでに執拗かつ的確な妨害工作を行うような将がいるとは、到底思えなかった。

「……一体、誰が糸を引いている。あの徳川の若造に、これほどの策が練れるとは思えぬ。その背後に……よほど食えぬ軍師でも潜んでいるのか」

 彼の背筋に、ぞわりと冷たい感覚が走る。見えぬ敵の刃が、自らの喉元に突きつけられているような――そんな錯覚。


 馬場は振り返り、鋭い眼光で部下たちを睨んだ。

「これより夜間の警備を倍にせよ。小荷駄隊には必ず赤備えの精鋭を付けろ。……次にその鼠が顔を出した時が奴らの最期だ。必ずや尻尾を掴み、根絶やしにしてくれるわ」

 怒気を孕んだ声。しかしその瞳の奥には、言葉にせぬ警戒と、わずかな畏怖が潜んでいた。


 陣幕に再び静寂が戻る。

 だがそれは、戦場を覆う嵐の前触れのような、不気味な静寂であった。

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