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第15節『最初の助言』

第15節『最初の助言』

 長雨が続いた。

 梅雨の名残を引きずるような鈍色の空から、しとしとと雨が落ち、領内を流れる川の水嵩は日ごとに増していった。やがて堤の一部が崩れ、濁流が田畑へと流れ込む。稲の青葉が水に呑まれ、泥に沈む光景は、農民にとっても領主にとっても痛恨だった。

 その報が館に届いたのは、まだ朝靄の残る刻限だった。源次は水桶を担ぎ、廊下を行き交う使用人たちの中で立ち止まり、襖の向こうから聞こえてくる家臣たちの声に耳を澄ませていた。

「今こそ大規模に堤を築き直すべきだ! 毎年のように被害が出ては、百姓どもも立ち行かぬ」

「馬鹿を申すな。今の井伊家に、そのような余裕はない! 財政は火の車だぞ。応急処置で持ちこたえるほかあるまい」

 声を荒らげる武断派と、冷静に押し返す文治派。議論はまたもや平行線をたどっていた。

 源次は額に滲む汗を拭いもせず、心中でつぶやいた。

(……まただ。直虎様は、こんな対立ばかりの家臣団を一人で束ねておられるのか)

 思わず胸が締め付けられる。

 あの月夜に見た、孤独な背中がよみがえる。ため息ひとつに込められた重圧を思えば、この水害の報も、きっと彼女の肩をさらに押し潰すに違いない。

 その時だった。議論の合間に、川の地形についての説明が漏れ聞こえてきた。

「問題の箇所は川下に近い。潮の影響を受けやすく、水位の上下も大きい」

 その言葉に、源次の胸がどくりと鳴った。

(潮の影響……? この川、海と繋がっているのか。ならば……)

 前世の知識が閃光のようによみがえる。潮の干満を利用すれば、工事の負担を大きく減らせる。現代の土木工事の理屈ではなくとも、漁師の経験則として語れる程度の「知恵」ならば、この時代でも通じるはずだ。

 だが、すぐに自嘲が胸をよぎる。

(……いや、俺はただの足軽だ。口を挟んでよい場ではない。下手をすれば、生意気と斬り捨てられて終わりだ)

 源次は桶を置き、暗い廊下に身を寄せて拳を握った。

(だが……あの方のために、俺は誓った。見ているだけでは駄目だ。少しでも、その重荷を軽くするために)

 葛藤の末、源次は静かに覚悟を決める。

(出過ぎぬ形で伝えればいい……そう、あくまで「漁師の知恵」として)

 夜、自室に戻ってからも、心はざわめいていた。布団に横たわっても眠れず、頭の中で何度も言葉を組み立てては崩す。

(潮の満ち引きを……どう言えば、怪しまれずに伝わる……? 直虎様が耳を傾けてくださるだろうか……)

 思考の渦に沈みながら、ようやく夜明けを迎えた。

***

 翌日。直虎は数名の家臣を連れ、川岸の視察へ赴いた。源次も末席の足軽として警護に加わった。

 川は昨夜の雨でさらに膨れ、濁った水が轟々と音を立てて流れている。土の香と湿気が肌にまとわりつく。崩れた堤の跡には泥の塊が露わになり、農民たちが途方に暮れて立ち尽くしていた。

 直虎は黙然と川を見下ろし、背後では家臣たちがまた口論を始める。

「やはり大堤を築くべきだ! 費用など後からどうにでもなる」

「無謀だ! 井伊家の台所事情をご存じか!」

 その声に、直虎の肩が僅かに沈んだように見えた。

 源次の胸が疼いた。

(……また、同じだ。この人は孤独に板挟みになっている。今ここで、俺が言わねば……!)

 場の空気が重苦しく淀んだその瞬間、源次は一歩、前へ進み出た。

「申し上げます」

 声が川音に溶けかけた。

 家臣たちの視線が一斉に突き刺さる。末席の足軽が突然言葉を発したのだ。当然の反応だった。

「何だと? 足軽風情が口を挟むか!」

「下がれ!」

 怒声が飛ぶ。だが直虎が手を上げ、彼らを制した。

「……申してみよ」

 その瞳が、まっすぐに源次を射抜いていた。

 胸が熱くなる。恐怖と高揚が入り混じり、喉が渇く。源次は深く頭を垂れ、慎重に言葉を選んだ。

「漁師の知恵にございます。僭越ながら……」

 ざわめきが再び広がる。だが、彼は続けた。

「この川は潮の影響を受けております。月の満ち欠けを読めば、年に数度、川の水が海に引かれ、干潮の折には川底が見えるほど水位が下がります。その時を狙えば、人手も費用も少なく、基礎を深く固めることが叶いましょう。漁師どもは、その潮を利用して杭を打ったり、網を張ったりしておりますゆえ」

 一息に言い切ると、川音の中に沈黙が訪れた。

 家臣たちは顔を見合わせ、口々に囁く。

「月の満ち欠けだと……?」

「博打のような真似、信じられるか」

「たかが漁師の知恵……」

 中野直之が一歩前に出て、鋭く言い放った。

「戯言を申すな! 治水を博打に委ねる気か!」

 刹那、源次の胸に冷たいものが走る。

(……駄目か。やはり軽んじられるか)

 だが、その時。

「――面白い」

 直虎の声が、凛として響いた。

 彼女は源次を見据え、瞳の奥で何かを確かめるようにじっと見つめていた。

「潮の時を待ち、普請を行う……試してみる価値はあるやもしれぬ」

 鶴の一声に、家臣たちの動きが止まった。誰もが言葉を失い、ただ主君の判断を仰ぐしかなかった。

 源次は深く頭を下げ、息を殺した。

(……通った。俺の言葉が、この人の決断に届いたんだ)

 まだ結果はわからない。だが、確かに一歩を踏み出せた。

 推しとしての憧れではなく、隣に立ち、力となるための第一歩を。

 川面を渡る風が、源次の頬を撫でた。

 その風は、未来を大きく変える序章のように思えた。

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