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第149節『夜の出撃』

第149節『夜の出撃』

「源次殿。貴殿まで前線に出る必要はないのではないか」

 出立前、中野直之は鎧の紐を締めながら問いかけた。その声には、彼の身を案じる響きがあった。源次は、軽鎧の帯を締めながら静かに首を振る。

「いえ、この作戦は私が立てたもの。机上の空論で終わらせぬため、この目で戦況を見届けねばなりませぬ。それに……」

 彼は槍の手入れをする新太を一瞥した。

「新太殿に指揮を任せる以上、その監督責任は私が負う。家中を納得させるには、それしかありませぬ」

 中野は短く、「……死ぬなよ」とだけ呟いた。それ以上は何も言わなかった。源次の覚悟と、その裏にある政治的な配慮を理解したからだ。

(それに、あいつを一人で死地に行かせるわけにはいかない……)

 最後の言葉は、源次は胸の内に仕舞い込んだ。


 深夜。霧の立ち込める山道に、音もなく影が動く。

 源次は軽鎧に身を包み、腰には刀と革袋に入れた地図のみを携えていた。隣には、新太を先頭とした遊撃隊、総勢五十名ほどの精鋭たちが、息を殺して列を成している。雨上がりの湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。腐葉土と草の匂い、そして遠くの焚き火の煙が風に乗ってかすかに漂ってきた。


 草鞋の紐は固く結び直され、鎧の金具には布が巻かれ、擦れる音は徹底的に消してある。枯れ葉を踏む音すら命取りになる。

(ここからは、俺もただの軍師じゃない。一人の兵士だ。仲間と共に、この闇を駆け抜ける…!)

 目の前の木々は、不気味な獣の影のように揺れる。雲に隠れた月の光がわずかに差すだけで、周囲の様子はほとんど見えない。

 不意に、先頭の新太が片手を上げた。全員がその場で伏せる。息を殺し、動かぬ影となった。

 遠く、武田の斥候が三人、谷道を進んでいく。枯れ枝を踏む微かな音。心臓が一瞬、止まるかのような緊張が走った。

(危なかった……! 新太の野生の勘がなければ、終わっていた。俺の知識だけでは、この闇は越えられない。やはり、こいつが必要だ)


 斥候が通り過ぎるのを待ち、再び行軍を開始する。ぬかるみに足を取られ、茨で腕を切り、全身が泥にまみれる。夜露に濡れた衣服が体に張り付き、体温を奪っていく。

(暗すぎて何も見えん! 現代ならナイトビジョンがあるのによ! マジで怖い…!)

(俺の推理、本当に合ってるんだろうな…? これで敵がいなかったら、ただの夜のハイキングだぞ…)

 それでも、源次は足を止めなかった。計算された作戦への自信、現実の暗闇に押し潰されそうな恐怖、そして直虎様を守るためにこの闇を抜けねばならぬ使命感。三つの内心がせめぎ合う。


 やがて、視界が開ける崖の縁に到達した。

 眼下に広がるは、犬神の谷。雨上がりで空気は澄み、焚き火の光に照らされた武田の小荷駄隊の姿が見える。米俵が山と積まれ、馬がつながれ、兵たちは酒を口にして油断しきっていた。

(いた…! 俺の推理通りだ!)

 源次は小さく息をつき、崖の縁にしゃがむ。だが彼の思考は、もはや目前の敵だけに留まらなかった。

(この小荷駄隊を叩けば、二俣城を攻める武田の別動隊の動きは確実に鈍る。だが、それだけじゃない。この奇襲の報せは必ず浜松の家康の耳にも入る。徳川の主力部隊が何もできずにいる中、我ら井伊の小部隊だけが成果を挙げたとなれば……連合軍内での力関係も変わる。これは、武田の腹を裂くと同時に、徳川の喉元に刃を突きつける一手なのだ!)


 横で新太が槍を握りしめ、獲物を狙う狼のような瞳で谷を見下ろしていた。

「準備はいいか?」

 源次の小声に、新太が無言で頷く。


 部隊全員が、息をひそめて夜明けを待つ。

(この一手が、直虎様の未来に繋がっている。この暗闇の先にあるのは、井伊谷の夜明けだ。進むしかないんだ…!)

 源次は深く息を吸い込み、目を細める。

 すべての準備が整った。あとは、夜明けと共に谷底へ雪崩れ込む、その瞬間を待つのみである。

 闇夜の崖の上、沈黙が支配する。しかし、その沈黙は、迫りくる戦の息吹に満ちていた。

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