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第148節『最初の標的』

第148節『最初の標的』

 天幕の中は、微かに煤の匂いと墨の匂いが混じった独特の空気で満ちていた。

 炭火の上で燻る油皿がかすかな光を放ち、床に広げられた巨大な地図の上には、駒や木札が散らばっている。間者たちが持ち帰った情報が、そこに細かく書き込まれていた。「秋葉街道の村で米を徴収」「兵の移動速度は一日五里」「馬場信春隊の武将は性格が慎重」――一枚一枚が、敵という生き物の断片だった。


 源次は指先で地図上をなぞりながら、静かに呟いた。

(情報が多すぎる。しかし、この中に必ず法則があるはずだ。武田軍という巨大な生き物の呼吸を読むんだ…!)

 間者が小声で報告を続ける。古い山道を通る補給隊の通過時間、休息の習慣、護衛の人数――それらはまだ断片的な情報だ。

 源次は炭で駒を置き、紙の上に線を引く。紙と炭の擦れる音が、天幕の静寂を切り裂いた。

 (ふむ…ここからここに向かうなら、護衛の巡回パターンはこうなるはず…)

 頭の中で、源次は情報をパズルのように組み合わせる。


 (待てよ……この行軍パターン、どこかで聞いたことがある)

 彼の脳裏に、かつて読み耽った軍記物『甲陽軍鑑』の一節が稲妻のように閃いた。

 (――信玄公は、雨の後のぬかるみを何よりも嫌ったという。兵の疲弊と、荷駄車の遅れが全軍の命取りになると。第四次川中島の戦いでも、別働隊の到着が遅れたのは、前夜の雨が原因の一つだったはずだ。あの失敗を、あの信玄が繰り返すはずがない)

 耳を澄ませば、自分の脳内で「パチリ」と火花が散る音が聞こえたかのようだ。


 「(ああ、そうか…昨夜の雨だ)」

 雨の後は必ず兵を休息させ、ぬかるんだ主街道を避けて、乾いているが警備の手薄な古道を選ぶ――間者の報告と、史書にある武田軍自身の過去の戦訓が重なった瞬間、源次の胸に確信が走った。

 (間違いない! 明日の夜明け前、敵の小荷駄隊は警戒が手薄になるこの『犬神の谷』を必ず通る)

 地図の一点に、源次は炭で力強く丸を描き、深く息をつく。情報の海の中から、敵のアキレス腱を見つけ出した瞬間だった。

 こめかみを押さえ、緊張の痛みを感じながらも、鳥肌が立つような高揚が体を駆け抜ける。


 (まるでシミュレーションゲームだな。だが、失敗したら死ぬのは仲間だ…! 覚悟を決めろ)

 源次は天幕の外に出た。冬の夜気が鼻孔を刺し、澄んだ空気が思考を研ぎ澄ます。

 (この一撃で戦の流れを少しでも変える。時間の積み重ねが、直虎様のいる井伊谷を守る防波堤になる。一手たりとも無駄にはできない)

 月明かりの下、影が長く伸びる。新太は既に外で待機していた。その目は鋭く、しかし冷静に戦況を見据えている。

 源次は静かに声をかけた。「新太、標的はここだ」

 指先で地図上の一点を指す。その一点を、新太は狼のような眼差しで見つめた。

「敵は米と矢弾を運ぶ小荷駄隊。護衛は百に満たない。夜陰に乗じて谷へ向かい、夜明けと共に叩く」


 新太は何も言わず、ただ槍の柄を強く握りしめた。冷たい鉄の感触が指先を通して覚悟を伝え、その口元に好戦的な笑みが浮かぶ。

「今夜、出るぞ」

 源次の言葉に、新太は頷き、隊列の先頭に立った。

 源次はその背を見守りながら、胸の奥で誓う。

(この一手で、戦局を少しでも揺ぶり、井伊谷を守る。無駄な動きは一つも許されない)

 夜陰に包まれた谷道で、新太率いる最初の遊撃隊は静かに動き出す。

 歴史を動かす小さな一撃の時は、確実に迫っていた。

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