第147節『新太の役割』
第147節『新太の役割』
朝霧がまだ野営地を覆う、薄氷のような冷気の中。源次は井伊軍の陣幕へと足早に歩いていた。
家康から許可された「小規模な別働隊」の指揮権。それは全面的な勝利を約束するものではなく、ほんの小さな許可に過ぎない。だが、動かせる駒を手に入れたことは、戦局を動かすための絶好の布石だった。
この「蜂の一刺し」作戦を成功させるための指揮官は、彼の思い浮かべる中ではただ一人しかいなかった。
――新太。
元武田の猛将であり、山での戦に長け、敵の戦法を熟知している男。
井伊家の陣幕では、主だった者たちに別働隊の編成が告げられ、静かな緊張が走っていた。中野直之は源次の言葉を信じ、異論を挟むことはない。しかし、他の武士たちの間では、囁き声が交わされていた。
「指揮官は……新太殿が務められると」「……元は武田の将。まことに、信じてよいものか」
公然とした反発ではない。だが、降将とその部隊に対する拭いきれぬ不安と警戒が、そこにはあった。源次は、その空気を断ち切るように、静かに告げた。
「この作戦は、武田の戦い方を知り尽くした者でなければ遂行できませぬ。山を知り、敵を知る。新太殿をおいて他にこの任が務まる者はいない。……責は、すべて軍師である私が負う」
その有無を言わさぬ気迫に、家臣たちは押し黙る。源次は、一度は刃を交えた好敵手を最も危険な役目に就かせる罪悪感と、彼しかいないという確信の間で揺れながらも、軍師として非情な決断を下したのだ。
源次は、槍の手入れをしている新太のもとへ向かった。寒気に吐く息は白く、槍の鉄穂が鈍く光を反射していた。
「新太。この任を頼みたい」
源次は声を抑えながらも、確固たる意志を込めて言った。「別働隊の指揮を、そなたに託す」
新太は手を止め、槍を抱くように立ち上がった。その瞳には複雑な光が宿る。
「……相手は、武田だぞ」
源次は一歩前に進み、真摯な眼差しで新太を見つめる。
「無理強いはせぬ。だが、そなたの力が必要なのだ。この戦は、井伊谷を守るため、そしてお前とお前を慕う者たちの居場所を守るための戦いだ」
新太は一度息をつき、手の中の槍をぎゅっと握った。鉄の冷たさが指先を通じて覚悟を伝える。
(……父上。あなたは俺を将としては使ってくれた。だが、決して子として認めようとはしなかった。そのあなたの国に、俺は今から牙を剥くというのか。これもまた、俺の運命か。だが、今の俺の主は源次だ。俺の居場所はここだ。……迷うな、俺)
彼は自らに言い聞かせるように呟くと、顔を上げた。
「……よし。俺は、お前の槍になる」
声に迷いはなく、力強さだけが残った。「たとえ相手が誰であろうと、任務を全うする」
源次は、その肩を軽く叩いた。言葉以上の信頼が、二人の間に流れる。
その後、源次は遊撃隊の前に立った。隊は、新太を慕って井伊に降った元武田兵と、井伊の若者たちによる少数精鋭で構成されていた。彼らは新太が指揮官だと聞き、驚きと緊張が入り混じった顔を上げる。
新太は静かに立ち、隊を見渡した。その目は険しく、しかし決意に満ちている。
「我らは武田の腹を裂く牙となる。覚悟はよいか?」
兵たちは沈黙の中で頷き、やがて声を合わせた。
「おおっ!」
源次は隊の背後からその光景を見守りながら、自らの心中を整理する。
(この時代の遊撃戦、いわゆるゲリラ戦は、戦功として評価されにくい汚れ仕事だ。だが、その効果は絶大だ。武田軍は統制が取れている分、想定外の奇襲に弱い。特に補給部隊を繰り返し叩けば、大軍の進撃速度は確実に鈍る。その稼いだ時間こそが、井伊谷の防備をさらに固め、民を安全な場所へ逃がすための生命線となるのだ。山での戦に長けた新太ならば、必ずや敵を翻弄できるはずだ)
この複雑な役目を託せる唯一の男を危険な場所に送り出す申し訳なさと、最強の駒を得たという高揚感が、胸の中で複雑に絡み合っていた。
源次は新太に近づき、短く声をかける。
「必ず成果を挙げる。この小さな一手で、戦局を動かす」
新太は頷き、再び槍を握る。背後の霧が少しずつ晴れ、朝日が隊の列を照らし始めた。
最も危険な駒が揃い、戦場の風景に新たな影が落ちた瞬間だった。
源次は心の中で静かに誓う。
(直虎様のため、この部隊で必ず時間を稼ぎ、戦況を有利に動かす――!)
遊撃隊は整列し、新太を先頭に森の奥へと消えていく。足音が霜を踏み、かすかな軋む音を立てる。
源次はその背を見つめ、胸の奥に熱い決意を抱いた。
最も予測不能な部隊が、ついに動き出す――歴史を動かす小さな一手が、ここに放たれたのだった。