第146節『ゲリラ戦の許可』
第146節『ゲリラ戦の許可』
評定の間に重い沈黙が残る中、家康はゆっくりと直虎からの書状を机の上に置いた。
その筆跡は凛としており、文面は明快であったが、その裏には確かな配慮と戦略眼が隠されている。家康は深く息をつき、評定の間を見渡した。本多忠勝の怒りに満ちた眼光、源次の静かながら揺るぎない姿勢、その双方を確かめるように見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「平八郎。そなたの言う武士の誇り、儂が誰よりも分かっておる。正面からの決戦で武田を打ち破りたいというその思い、決して軽んじてはおらぬ」
その言葉に、忠勝はわずかに胸を張った。主君が自らの心情を理解してくれたことへの安堵が、その険しい表情を少しだけ和らげる。
次に家康は源次に向き直り、静かに、しかし断固たる口調で告げた。
「だが、井伊殿の申される『新たな刃』、試してみぬもまた愚策。ゆえに――」
家康は一度言葉を切り、広間全体に響かせるように宣言した。
「決した! 本隊は野戦の備えを怠るな。されど、それとは別に、源次殿に小規模な別働隊を預ける。その働き、この家康が見届ける!」
源次はその言葉を聞き、内心で安堵と焦燥を同時に噛み締めた。
(全面採用ではないが、別働隊の許可は得られた。これだけでも大きな前進だ。『小規模な』とは、なんともケチくさい許可の出し方だが……いや、それでいい。徳川の本隊が決戦準備で武田主力を釘付けにしてくれれば、それこそが俺たち別働隊が自由に動くための最高の時間稼ぎになる)
(直虎様が繋いでくださったこの道を、最大限に利用するんだ。この小さな一手で必ず戦況を動かし、あなたと井伊谷を守る時間を稼いでみせる!)
評定の間に一瞬、沈黙が走る。
忠勝の眉がわずかにひそみ、唇を固く結んだ。その目には、納得と不満が交錯していた。「……殿の御命令とあらば」
彼は言葉を飲み込み、平伏した。しかし、その鋭い視線は源次を射抜いて離さない。
源次は顔を前に向け、頭を深く下げる。
「ははっ! その御采配、我が主・直虎に代わり、厚く御礼申し上げます。必ずやご期待に応えてみせましょう」
そのやり取りを、酒井忠次は冷静な目で見つめていた。
(……なるほど。殿は、忠勝らの武士としての面子を立てるために「野戦準備」を命じられた。だがその実、戦の主導権は井伊の軍師殿に与えたも同然。徳川本隊は動かぬことで敵主力を引きつける『重石』となり、その隙に別働隊という『鑿』で敵の根幹を砕く……。殿は、この若造の策の真の恐ろしさを、すでに見抜いておられるのか)
家康は手を軽く振り、軍議を閉じるよう指示を出す。火薬のように張り詰めていた空気は落ち着きを取り戻し、墨と香の匂いが再び評定の間に漂い始めた。
軍議が解散すると、源次はすぐに中野直之を呼び寄せた。
「中野殿。別働隊の人選に入ります。兵は少数精鋭。そして、その指揮官は――」
彼の脳裏には、この「蜂の一刺し」作戦を成功させる唯一無二の適任者の顔が浮かんでいた。
(これで自由に動ける部隊を手に入れた。だが、必ず成功させねばならぬ……!)
源次は深呼吸を一つし、肩の力を抜いた。
戦略の第一歩は整った。あとは計画を練り、敵の隙を突くのみである。この「小さな一撃」こそが、井伊谷を、そして直虎を守るための希望の糸口になるのだ。
評定の間を後にする源次の背中は、安堵と決意に満ち、しかし次なる試練に向かう緊張感で引き締まっていた。