表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/300

第145節『直虎の援護』

第145節『直虎の援護』

 軍議が決裂してから、浜松城の評定の間には重苦しい沈黙が漂っていた。

 徳川方の武将たちは眉をひそめ、口をつぐみ、井伊方もそれに倣って視線を落としている。家康は机に両手を置き、肩を小さく震わせながら頭を抱えるようにしていた。疲弊した兵力、反発する家臣たち、そして武士としての自らの誇り。その全てが彼の心を板挟みにしているのが見て取れた。

 源次もまた、孤立無援の感覚に心が揺れていた。

(ここまでか……。俺の策も、武士の矜持という名の壁の前では無力なのか……)

 内心の焦燥が、冷たい汗となって背筋を伝った。


 その重い空気を破ったのは、それまで源次の隣で静かに成り行きを見守っていた中野直之が、広間の隅に控える井伊の使者に、わずかに目配せを送ったことだった。

 使者は力強く頷くと、やおら立ち上がり、広間の中央へと進み出た。

 源次は目を見開いた。(使者が? なぜ今……?)


 彼は知らなかった。この一手こそが、直虎と中野によって仕組まれた、最後の切り札であったことを。


 その数日前、井伊谷城。

 直虎は、浜松へ向かう定期連絡の使者を前に、一通の書状をしたためていた。

 「良いか。この書状は、決して軽々しく渡してはならぬ。浜松に着いたら、まず中野直之にこの文の存在を知らせ、彼の指示を仰げ。彼が『今だ』と合図した、その時にのみ、家康殿へ差し出すのだ」

 彼女は、源次が誇り高い三河武士の中で必ずや軋轢を生むであろうことを予見していた。そして、その膠着を破るべき絶好の機を判断できるのは、軍議の場で空気の変化を肌で感じられる中野直之しかいないと考えていたのだ。

 使者が浜松に到着した後、中野は直虎の深謀遠慮に戦慄しつつ、この切り札を使うべき時を、ただじっと待っていたのである。


 そして現在、浜松城。

 使者は家康の前に膝をつき、書状を恭しく差し出した。

「井伊の御当主様より、預かっておりました書状にございます!」

 封を切る家康の手はわずかに震え、その眼光は鋭くも緊張を孕んでいた。家臣たちが息を詰める中、彼は書状を取り出し、凛とした声で読み上げた。


 ――「我が軍師・源次の策は、あるいは武士の誉れとは相容れぬものでしょう。されど、小勢が大軍に抗するには、常の道では叶わぬ道理。生き残り、民を守ることこそ、我ら将の真の務めと信じます。どうか徳川様におかれましても、三河武士の勇猛さに、源次の知略という『新たな刃』を加えてみてはいかがでしょうか――」


 源次はその言葉を聞き、胸の奥で強い衝撃を受けた。

(直虎様…! そして中野殿も…! 俺がこうなることを見越して、二人で先手を打ってくれていたのか…!)

 孤立無援だと思っていた自分に、最も信頼する主君と、そして共に戦う仲間から、確かな支えが差し伸べられた瞬間だった。


 評定の間に漂っていた澱んだ空気が、ふっと動いた。

 本多忠勝ら徳川の武将たちも、思わず視線を落とす。この時代の軍議において、同盟相手の当主からの正式な書状は、たとえ小国からのものであっても、その内容以上に「家と家の約束事」という重みを持つ。源次個人の進言であれば「若造の戯言」と一蹴できても、井伊家当主の公式な見解となれば、それを無下にはできない。彼らは否応なく耳を傾けざるを得なかったのだ。

(俺は一人じゃなかった…直虎様も、井伊谷で戦ってくれていたんだ。この想いに応えなければ…!)


 家康は書状を胸に抱くように持ち、深く息を吐いた。彼の目の前にあった天秤が、大きく傾いた瞬間だった。この書状は、彼が源次の策を採用するための、またとない「大義名分」となる。家臣たちの手前、井伊の若造の策に安易に乗ることはできなかったが、「同盟相手の当主からの正式な進言」という形であれば、彼らの面子も保つことができる。

 彼は源次、そして忠勝の顔を交互に見つめる。迷いは消え、決断の色が瞳に宿り始めていた。

 中野直之は源次の横で小さくうなずき、安堵の息を漏らした。だが、忠勝の顔には未だ緊張と複雑な感情が残っている。誇り高き三河武士の矜持と、新たな戦法の合理性――その間で揺れる心を、直虎の書状は強く、しかし巧みに鎮めようとしていた。


 源次は心の中で、直虎への感謝を繰り返す。

(俺の推しは、ただの後援者じゃない。あの人は、俺と同じ戦場で、俺の背中を守ってくれている…! この信頼に応えねば、男が廃る!)

 使者が運んできた泥の匂い、評定の間に漂う張り詰めた空気、そして源次の掌に伝わる安堵の感触。すべてが、書状という一枚の紙によって一変した。

 家康の目は定まり、決断を下すための最後の準備が整ったように見えた。連合軍の運命は、この瞬間から大きく動き始める。源次は遠い井伊谷にいる主君への感謝と、揺るぎない忠誠を胸に刻んだ。

 評定の間に漂う緊張と期待の空気。誰もが、次の瞬間に家康がどのような決断を下すのか、息を呑んで待っていた――。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ