第144節『武士の矜持』
第144節『武士の矜持』
評定の間に沈黙が続いた。
家康が源次の策を退けなかったことで、無謀な出陣は回避された。だが、それは徳川の猛将たちが持久戦という「逃げの戦」を受け入れたことを意味しない。広間に満ちるのは、安堵ではなく、屈辱に耐える重苦しい空気だった。
「……井伊の軍師殿。貴殿の策、確かに理には適うておる。だが、それは戦ではない。鼠の振る舞いじゃ」
低く響く声とともに、本多忠勝が立ち上がった。その巨躯が評定の間に影を落とし、圧倒的な存在感で源次の視線を捕らえる。傷だらけの顔には、烈火のごとき怒りが宿っていた。
「そうだ! 我らは徳川の武士ぞ! 闇討ちのような真似はできぬ!」
他の武将たちも次々と声を揃える。彼らにとって、源次の提案は武士の誇りを根底から否定するものだった。
源次は一歩も引かず、冷静な声で応じた。
「本多殿。死ぬことは忠義ではございませぬ。生き残り、主君をお守りすることこそが、真の忠義。腹を満たさぬ兵が戦場に立てば、いかなる猛将もただ飢えて死ぬのみ。誉れは、それでは何の足しにもなりませぬ」
忠勝の拳が机を叩き、その衝撃で茶碗が跳ねた。
「黙れ!」
忠勝の地鳴りのような声が、広間を震わせた。「貴殿の策は正しいのかもしれん。だが、我らには我らの死に場所がある! 殿の御前で無様な戦いを見せるくらいなら、たとえ犬死にと笑われようと、正面から敵にぶつかり、華と散ることこそが、我ら三河武士の誉れ! その生き様を、貴様に否定する権利はない!」
議論は一気に白熱し、怒号が評定の間に響き渡る。
源次は内心で歯噛みした。
(やはり来たか、感情論の壁が。彼らにとって戦は、命のやり取りであると同時に、自らの武勇を示し、恩賞を得るための晴れ舞台だ。俺の策は、その舞台そのものを奪うことに等しい)
(出たよ武士道…! 死んだら終わりだろうが! 生き残ってこそ、次の戦があるんだろう! この時代の価値観、マジで理解できん!)
本音では苛立ちが迸るが、声には出さず、理路整然と論理を積み上げる。
「忠勝殿。正面から討ち死にすることこそが忠義とお考えでしょう。しかし、戦場はただの舞台ではございません。生き残り、兵を守り、家を守ること。これこそが、大将の器を持つお方々が果たすべき、真の忠義と存じます」
忠勝の眉が険しくしかめられる。目の前の若き軍師が、圧倒的な武を前にしても一歩も引かず、逆に「将の器」を問うてくる。その毅然とした姿勢が、徳川の猛将たちに小さな動揺をもたらした。
その時、中野直之の声が響いた。
「……源次殿の言う通りだ! 誇りだけでは国は守れぬ!」
だが、徳川の武将たちの数と気迫の前では、その声はあまりに小さかった。
家康は頭を抱え、深く息をつく。「……静まれ。しばし、時をくれ…」
主君のその一言で、怒号は収まった。だが評定の間には、熱が冷めた後の重苦しい空気だけが残った。武士の矜持と生存の論理が激突し、連合軍の内部は、戦う前に空中分解寸前の状態に陥っていた。
源次は、眼前の混乱を冷静に見据える。
(俺が守りたいのは、武士の矜持じゃない。直虎様が大切にしている民の命と暮らしだ。そのためなら、俺は悪役にでも、臆病者と罵られても構わない!)
戦の前哨戦は、まだ議論の場に過ぎない。理の井伊と武の徳川、その根本的な価値観の対立は、戦の行方よりも先に、この軍議の場で激しく火花を散らしていた。