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第143節『源次の進言』

第143節『源次の進言』

 広間に、冷たい沈黙が流れていた。

 家康から放たれた「そなたも……儂が間違っておると申すか」という問いが、刃のように源次に突き刺さる。徳川の重臣たちの視線が一斉に集まり、彼の答え一つで、この場の空気が、そして井伊家の運命が決まることを誰もが悟っていた。


 その張り詰めた空気を裂くように、源次はまず、深く頭を垂れた。そして、意外なほど穏やかな声で口を開いた。

「……滅相もございません。家康様のお気持ち、痛いほどお察しいたします」

 その一言に、広間の空気がわずかに揺らいだ。

「この場におられる誰しも、討ち死にした仲間の無念を思わぬ者はおりませぬ。あの屍の山を目にして、憤らぬ武士などいましょうか」

 家康の険しい眼差しが、かすかに和らぐ。

 彼の胸中に燃える弔い合戦の情。その熱にまず寄り添うことで、源次は主君の怒気を真正面から受け止めた。

 ――だが、ここからが本題だ。

 彼は懐から一冊の帳面を取り出し、静かに広げた。血と薬草の匂いが充満する広間に、紙の擦れる音がやけに大きく響く。

「されど、現実を見ねばなりませぬ」

 源次の声は低く、だが一語ごとに重みを帯びていた。

「此度の戦にて、徳川・井伊の兵、およそ半数を失いました。残存兵は八千余。矢弾は三日と保たず、兵糧は十日が限りにございます」

 読み上げられる数字に, 広間の空気が凍り付く。

 誰もが心の底で知っていた事実。だが、それを言葉にされ、目の前に突きつけられることほど残酷な瞬間はない。

「これで、いかにしてあの武田二万に再び挑みますか」

 家康の指が、卓の縁をぎりりと締めつける。白く浮き出た関節が、怒りと悔しさを物語っていた。


 源次は内心、冷や汗を流していた。

(頼む、逆上して斬り捨てたりはしないでくれ……。だが、これを言わねば全てが終わる)

 彼は畳みかけるように言葉を重ねた。

「武士の心意気や勇気だけでは、兵糧も矢も湧いてはまいりませぬ。戦は気概ではなく、数で決まります。――これは、現実でございます」

 広間に重苦しい沈黙が広がった。

 武将たちの顔色が変わる。熱に浮かされた怒りは冷え、現実という氷水を浴びせられたかのように。


 源次は深く息を吸い、最後の策を提示する時を見計らった。

「しかし、勝ち筋がないわけではございません」

 その一言に、家康が鋭く視線を戻す。

 源次は地図を卓上に広げ、指で街道と山間をなぞった。

(俺が井伊谷で直虎様に示した策と、本質は同じだ。あの時は井伊家単独で生き残るためのものだったが、今度はこの連合軍全体を救うための策として提示する…!)

「正面からぶつかれば、必ず潰されます。ならば、戦わねばよいのです。浜松に籠り、持久する。兵を休め、城を固める」

 彼の指は次に、山中の細道へ移る。

「そして別働の手勢を走らせ、武田の補給を絶つ。夜襲、奇襲、攪乱。連日の襲撃に敵を疲れさせ、飢えさせ、じりじりと力を削るのです」

 地図を囲む視線が、一斉に釘付けになる。

 本多忠勝でさえ、その言葉を一笑に付すことができなかった。

 源次の胸の奥では、心臓が激しく打っていた。

(これしかない……直虎様の井伊谷を守るためにも、徳川がここで潰えぬためにも。この策に賭けるしかない!)

「敵が疲れ果てたところを、初めて打つ。それこそが、我らの生き残る唯一の道にございます」


 言い終えた瞬間、広間はしんと静まり返った。

 荒い呼吸をしていた家康も、黙して視線を落とす。机に置かれた彼の拳が震えているのは、怒りではなく、認めざるを得ない現実を飲み込もうとする葛藤のせいだった。

「……」

 誰も口を開かない。

 ただ、徳川の武将たちの目に浮かぶのは「逃げ戦」を受け入れてよいのかという戸惑いだった。

 源次は、彼らの胸中の反発を感じ取っていた。だが今はまだ、そこまで踏み込む時ではない。

 まずは主君を止めること。それが第一の勝利である。

 やがて家康が、唇をかみしめながらも、深く目を閉じた。

 広間を支配するのは沈黙。

 源次は、その沈黙が意味するものを悟っていた。

(家康は策を退けなかったぞ)

 それだけで十分だった。

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