表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
142/300

第142節『家康の焦り』

第142節『家康の焦り』

 浜松城に、敗戦の影が深く垂れ込めていた。

 先の野戦で散った数多の屍の重さは、兵たちの心を押し潰し、城内に満ちる空気をなおさら淀ませていた。

 負傷兵は呻き声を上げ、薬師や僧が往来を絶え間なく行き交う。戦死者の亡骸は次々と城下に運ばれ、香の煙とともに弔いが営まれるが、涙を拭う暇すらなく日々が過ぎていく。

 誰もが敗北の爪痕を抱え、重苦しい沈黙の中で日常を取り戻そうとしていた。

 だが、総大将・徳川家康はその沈黙の中で逆に焦燥を募らせていた。自らの判断ミスで多くの兵を失ったという自責の念が、彼の心を夜ごと苛み、冷静な判断力を奪い始めていた。早く雪辱を果たさねば、死んでいった者たちに顔向けができない――その強迫観念が、彼を危険な決断へと駆り立てていたのだ。

 敗戦直後から彼は自室に籠り、誰の声も受けつけなかった。家老・酒井忠次でさえ、まともに言葉を交わすことはできずにいた。


「……家康殿は、また一人でお悩みか」

 井伊の家臣・中野直之がぽつりと漏らす。

 その横にいた源次は、腕を組んだまま短くうなずいた。

(……危うい。あの人の沈黙は、ただの傷心ではない。煮えたぎる溶岩を、無理やり蓋で押さえつけているようなものだ。このまま溜め込めば、いずれ爆ぜる)

 彼の胸に、いやな予感が広がっていった。


 やがてその朝、ついに嵐は訪れた。

「全将、評定の間に集まれ!」

 家康の声が城中に響き渡った。沈黙の日々が破られた瞬間だった。

 評定の間には、徳川の重臣たちが居並んだ。酒井忠次、本多忠勝、石川数正、大久保忠世ら、皆一様に表情は硬い。

 さらに、井伊からも源次と中野直之の二人が呼び出されていた。

(俺たちまで呼ぶとは……。やはり、ただならぬ話になる)

 源次は背筋を伸ばし、家康の登場を待った。


 襖が音を立てて開かれる。

 姿を現した家康は、かつての覇気を失ったかに見えた。目の下に隈を刻み、髭も手入れされぬまま伸び、衣の襟元は乱れている。

 だがその瞳だけは異様な光を帯びていた。

 彼は無言のまま評定卓の前に進み、地図を睨みつけると、拳でそれを叩きつけた。

「我らはこのまま座して死を待つつもりか!」

 乾いた音が広間に響き渡る。誰も言葉を発せぬまま、家康の声だけが木霊した。

「武田に受けたこの屈辱! 返さねばならぬ。死んでいった者たちの無念を、空しくするわけにはいかぬ!」

 その怒声に、源次は無意識に背筋が冷たくなるのを覚えた。

(……来た。最悪の形で……)


 酒井忠次が一歩進み出て、深く頭を垂れた。

「殿、なりませぬ! 兵は疲れ果て、負傷者も数知れず。今ここで戦えば、さらなる惨敗を招くだけにございます。今は耐えるべき時にございます!」

 しかし家康は振り返りざま、鋭い眼光を向けた。

「黙れ、忠次! その耐えが、いかほどのものか! 死んでいった者たちに、どう顔向けするつもりだ!」

 地図の上を指で突きながら、家康は息巻く。

「兵を再編し、ただちに出陣する! 今一度、武田と相まみえる!」

 広間の空気が凍り付いた。

 武将たちは主君の迫力に押され、あるいは雪辱を望む気持ちに突き動かされ、誰も強く反論できずにいた。

(……また同じ過ちを繰り返す気か!)

 源次は内心で歯噛みした。

(この時代の戦は、単なる兵力のぶつかり合いではない。弔い合戦という大義名分は、時に兵の士気を極限まで高める劇薬にもなる。家康は、その劇薬に賭けようとしている。だが、相手はあの武田だ。感情に任せた戦が通じるはずがない)

(この人、学習能力ないのか!? 気持ちは分かるが、それで兵を犬死にさせたら本末転倒だろ!)

 そして最後に、最も重い思いが胸に突き刺さる。

(このままでは……井伊の兵も再び死地に送られる。それだけは、絶対に阻止しなければ。直虎様との約束が……!)


 源次の掌は汗で濡れ、背筋には氷のような感覚が走った。

 主君の激情が、まるで火薬の匂いとなって広間に満ちてゆく。

 誰も声を上げぬ中、源次は静かに立ち上がった。

 衣擦れの音だけが広間に響き、全員の視線が彼に注がれる。

「……源次」

 家康の低い声が飛んだ。

 その眼光が、井伊の軍師ただ一人を射抜いている。

「そなたも……儂が間違っておると申すか」

(来た……! ここだ、ここが勝負どころだぞ、俺! 全員が黙り込むこの場で、俺だけがこの暴走を止められる。しくじれば俺の首が飛ぶ。だが、成功すれば、徳川も井伊も救える! やるしかない!)

 重苦しい沈黙の中、評定の間に立つのは、ただ一人の井伊の軍師だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ