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第141節『敗戦の傷跡』

第141節『敗戦の傷跡』

 夜半に降った雨はすでに上がっていたが、浜松城を包む空気は湿り気を帯び、どこか重く沈んでいた。

 昨日の軍議で家康が全軍に頭を垂れた熱は、一夜明けて、城内の隅々に行き渡る冷たい現実に押し流されていた。

 源次は井伊家臣の中野直之らと共に、静まり返った城内を歩いていた。

 かつては鬨の声が響き、士気に燃え立っていた廊下も、今は虚ろな目をした徳川兵が壁に凭れかかる姿で埋まっている。

 誰もが口を開かず、ただ遠くからかすかに響く呻き声と、絶え間なく続く読経の低い声だけが耳に残った。

「……酷いものだ」

 直之がぽつりと漏らす。

 源次は黙って頷き、歩みを進めた。

(昨日の家康の言葉で、一時的に心はまとまった。だが、肉体と魂に刻まれた傷は、そう簡単には癒えない……)


 城の一角に設けられた治療所へ足を運ぶと、そこはすでに「地獄」としか言いようのない光景に満ちていた。

 床には藁が敷かれ、その上に数十人の徳川兵が横たわる。

 血に濡れた包帯が幾重にも巻かれ、呻き声が重なり合う。薬草を煎じる匂いと、血と膿の甘ったるい臭気が入り混じり、湿った空気に漂っていた。

「水を……」「母上……」

 か細い声が幾つも、夢と現の間をさまようように漏れる。

 源次は思わず足を止めた。


 視線の先に、井伊家の若い兵が二人、負傷者の枕元に水を運んでいた。彼ら自身も腕や足に包帯を巻かれていたが、それ以上に深手を負った徳川兵の看護にあたっていた。

「お主らも休め」

 直之が声を掛けると、若い兵は首を横に振った。

「我らの傷は浅うございます。徳川の方々を助けねば……」

 その言葉に源次の胸が締めつけられた。

(井伊は確かに損害を抑えられた。だが、それは徳川の兵が盾となり、血を流したからこそだ。俺の采配は正しかったのか……)

 彼はふらりと、近くの井伊の軽傷兵の傍らに膝をついた。

 その兵は顔色こそ青白かったが、かすかに笑みを浮かべていた。

「軍師様……おかげで、生き延びられました」

 源次は、その手を静かに握った。

 弱々しく返ってくる力は、あまりにも細い。

「……すまなかった」

 絞り出すように呟いた声は、兵に届いたかどうか分からなかった。

(違う……俺がもっとうまくやっていれば、お前たちは傷つかずに済んだんだ)

 それ以上の言葉は、喉の奥に詰まって出てこなかった。


 治療所を出ると、夜気が肌を刺した。

 源次は重い息を吐き、ふと廊下の奥にある仏間へと視線を向けた。

 襖の隙間から灯火が漏れ、誰かの影が揺れている。

 近づこうとした足が、思わず止まった。

 そこに座していたのは、徳川家康その人だった。

 香の煙が揺らめく位牌の前で、彼は肩を震わせていた。

 声にならぬ嗚咽。涙に濡れた顔を拭おうともせず、ただ静かに、失った家臣の名を呟いていた。

 昨日の軍議で見せた大将の堂々たる姿は、そこにはなかった。

 ただ一人の男として、部下の死を悼み、背負いきれぬ責めを抱える姿があった。

 源次は、襖に手をかけることなく、そっと踵を返した。


(あの人もまた、この痛みを背負っているのか……)

 廊下を歩きながら、背筋に別の種類の冷たい汗が伝った。

(待てよ……。俺が知る歴史では、徳川家康が信玄にこれほどの大敗を喫するのは、来年の『三方ヶ原の戦い』のはずだ。だが、今目の前で起きているこの惨状は、それに匹敵するほどの敗北じゃないか。こんな戦い、俺の知る歴史にはなかったぞ……?)

 思考が渦を巻く。

(これは、俺の存在が引き起こした『歴史のズレ』なのか? それとも、大局に影響しなかったために歴史書に一行も記されなかった、無数の敗戦の一つ――俺が知らなかっただけの『埋もれた史実』なのか? どっちなんだ……?)

 どちらにせよ、確かなことは一つ。彼の持つ知識という羅針盤は、もはや絶対的なものではなくなっていた。


 井伊谷の方角を仰ぎ見る。

 その向こうには、直虎が治める村と人々の暮らしがある。

(だからこそ、俺は間違ってはならない。この地獄を、絶対にあの人の土地には持ち込ませない!)

 胸の内で静かに誓いを新たにし、源次は歩を進めた。

 敗戦の傷跡は深い。だが、ここから立ち上がらねばならないのだ。

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