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第140節『源次の評価』

第140節『源次の評価』

 広間に重苦しい沈黙が落ちていた。

 源次の痛烈な皮肉が徳川の武将たちを沈黙させてから、すでにしばしの時が経っている。だが誰一人、声を発しようとはしない。

 音といえば、障子越しに聞こえる雨音だけ。ぱらぱらと降り続ける雨粒が、戦で荒んだ城下の土を打ち、静寂の中にかすかなリズムを刻んでいた。

 源次は正面、上座に座る男を凝視していた。

 徳川家康。その総大将は、目を閉じ、両膝に手を置いたまま、石像のように微動だにしない。

 すべての家臣たちの視線も、いまやその男に注がれていた。

(さあ、どうする家康……)

 源次の胸中に冷ややかな計算が巡る。

(ここで俺を罰すれば、徳川家の威信は保たれるだろう。だが井伊との亀裂は決定的になる。逆に俺を認めれば、重臣たちの面子は潰れる。どちらを取っても茨の道。総大将の器が試される局面だ)


 広間の空気は息を詰めるような緊張に支配されていた。

 家康は、閉じた瞼の裏で、家臣たちの顔を一人ひとり思い浮かべていた。(源次の指摘は、骨身に沁みる。だが、奴の言う通りだ。ここで儂が責めを負わねば、この軍は二度と一つの塊には戻れぬ。井伊の者の前で頭を垂れるは屈辱…! されど、誇りのために家臣の心を失うことこそ、将として最大の愚行よ!)


 やがて。

 家康は、ゆっくりと目を開いた。

 その瞳は、雨に濡れた夜空を思わせるような、深く暗い光を宿していた。

 そして――彼は立ち上がった。

 ごくりと誰かが息を呑む音が広間に響く。

 次の瞬間。


「……皆、済まなんだ」


 低く、しかし確かに響き渡る声が、沈黙を切り裂いた。

 広間が凍りついた。

 家康は、一歩前へ進み出る。

 そして、信じがたいことに、深々と腰を折り――家臣たちへ向かって頭を下げた。

「この度の敗戦、全ては総大将である、この儂の判断ミス。武田を侮り、皆を死地に追いやった……儂の責じゃ」

 大久保忠世が、思わず声を上げた。「殿! なにを仰せに……!」

 しかし、家康は彼を制するように片手を上げる。


 源次は、その光景を目にして思わず鳥肌が立った。

 背筋にぞくりと電流が走る。

(うわ、マジかよ……! 大将が頭下げたぞ!)

 内心で現代人の声が叫ぶ。(この人、ただの脳筋じゃなかったのか!? 俺、この人のこと……完全に見誤ってたかも!)

 広間は、完全な静寂に包まれた。

 誰もが信じられぬ思いで主君を見つめ、やがて鎧を鳴らしながら一斉に平伏する。鉄の板が擦れ合う音が重なり、広間は一瞬にして、主の覚悟を受け止める空気へと変わった。

 敗戦の澱んだ臭気が、徐々に消えていく。代わりに漂い始めたのは、再び戦場へと立ち上がろうとする武士たちの熱気――鉄と覚悟の匂いだった。


 家康は、ゆっくりと顔を上げ、家臣たちを見渡す。そして視線は――源次に向けられる。

「源次殿」

 その名を呼ぶ声は、広間に重く響いた。

「そなたの功、見事であった。この敗戦の中、唯一の勝利は、そなたが井伊の兵を生還させ、結果的に武田の追撃を鈍らせたことよ。その知略、この家康、確かに見届けた」

 その言葉は、源次に対する最大限の賛辞であると同時に、全ての家臣への無言の命令でもあった。

――この男を、軽んじるな。

 大久保忠世らは、主君の器の大きさを前に、なお悔しげに唇を噛みながらも、静かに頭を下げた。源次の手腕を認めざるを得なかったのだ。


 その瞬間、源次の胸中で、巨大な盤面が完成した。

(……なるほど。これが徳川家康か)

 政治的な冷静な分析が、彼の思考を完全に支配する。

(この男は、俺が直虎様を守るための最大の障害になり得る。だが同時に、最高の『駒』にもなり得る。この器の大きさ、家臣を惹きつけるカリスマ……これを御し、利用することができれば……直虎様が誰にも脅かされることのない、絶対的な安寧を築けるかもしれない!)


 心臓が熱く脈打ち、背筋の鳥肌は消えぬままだった。

 ただの武人だと侮っていた男が、今や自分の野望を実現するための、最も重要で、最も危険な存在として映っていた。

(史書に「家康は家臣の諫言をよく聞き入れた」とあるが、それはこういうことか。負けを認め、責めを負い、それでも前を向く。これこそが、三河武士団という鉄の結束を生んだ源泉。この強大な力を、いずれ俺が、直虎様のために利用するんだ)


 源次はその姿を、井伊家の軍師として、そして冷徹な策略家として、値踏みするように見つめていた。

 敗戦という絶望の只中で、家康は「責任を負う覚悟」と「他者を認める器量」を示したのだ。

 敗戦の痛みは癒えていない。だが――源次にとって、それは確かな野望の兆しであった。

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