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第139節『責任の所在』

第139節『責任の所在』

 浜松城の広間は、敗戦の重苦しい空気に包まれていた。

 降り続く雨が城の屋根を打ち、その音だけが静寂の中に響き渡る。泥にまみれ、血の匂いを纏った武将たちが、荒れ果てた表情で座していた。床几に腰を下ろす者、毛氈の上に崩れるように座る者、誰もが己の無力さを噛み締めている。

 上座に座す家康は机に肘をつき、その光景を苦々しく一瞥した。彼の瞳には、深い苛立ちと焦燥が渦巻いていた。


 やがて、井伊軍の陣から呼び出された源次と中野直之が、広間に足を踏み入れた。雨に濡れた鎧は拭われ、軽装のまま参列している。同盟軍として、この敗戦処理の軍議に加わるのは当然の義務であった。

 その二人を見た瞬間、包帯を腕に巻いた大久保忠世が、怒気を滲ませて立ち上がった。

「そもそも、井伊殿が勝手な動きをしたのが混乱の始まりではないか! 我らが必死に戦っている最中、早々に退却を始めるとは、盟友にあるまじき振る舞い!」

 その声に呼応するように、他の武将たちも次々と声を上げる。

「そうだ! 井伊が持ち場を捨てたせいで、我らの側面ががら空きになったのだ!」


 中野直之が怒りに顔を染め、反論しようとする。だが、源次は静かに手を上げてそれを制した。その表情は冷静そのもので、戦場を駆け抜けてきたとは思えぬほど落ち着き払っている。

「皆様の御奮戦、井伊の陣よりしかと拝見しておりました。誠に、獅子奮迅の働き、感服いたしました」

 一礼とともに発せられた源次の声は穏やかだが、広間の空気を一変させる重みがあった。

「されど、我らが退却の狼煙を上げたのは、徳川様の御本陣の旗が倒れ、総崩れとなった後のことにございます。統制を失った軍に、もはや連携はございませぬ。我らは、井伊の兵を無駄死にさせぬため、殿軍の任を果たしつつ、次善の策に移行したまで」

 源次は、冷徹な目で広間を見渡した。その視線には怒りも焦りもなく、ただ事実と論理だけがある。徳川の武将たちは顔を赤くし、言葉に詰まり始めた。

「もし、我らの動きが連携を乱したと仰せならば、その時は――我らよりも早く崩れた徳川の諸隊こそ、真っ先に責めを負うべきかと存じまするが」


 静かな皮肉を含んだその言葉に、広間は重苦しい沈黙に包まれた。

 源次は内心で深く息を吐いた。

(やはり責任転嫁が始まったか。ここで井伊が悪者にされれば、同盟は事実上破綻する。論理的に、事実だけを述べて反論するしかない)

(しかし、みっともないな! 負けた途端に仲間割れかよ! これだから武士という生き物は……。だが、ここで徳川と決裂するのは得策ではない。この敗戦ですら、直虎様と井伊家が生き残るための布石に変える。そのために、俺はこの茶番に付き合ってやる…!)


 大久保は、さらに声を荒げようとした。だが、源次の冷静で論理的な眼差しに押され、言葉を失う。血まみれで肩を落とす武将たちも、揺るぎない事実の前ではただの敗者に過ぎなかった。

 家康は、そのやり取りを固く口を閉ざしたまま見つめていた。胸中には、自らの判断が招いた敗戦への屈辱と、それを冷静に指摘する源次への底知れぬ畏怖が渦巻いている。井伊軍が最小限の損害で撤退したという事実は、単なる戦果の差を超え、家臣団の前で自らの権威を揺るがす一撃となっていた。

 雨音だけが、広間の静寂を支配する。

 源次はその中で静かに立ち、確かな手応えを胸に抱いていた。井伊の兵を守り、そしてこの軍議で主導権を握る。その二つの目的は、果たされたのだ。

 広間の空気は、敗北の臭気と、冷徹な知略の力が混ざり合った独特の緊張に満ちていた。戦場の現実が、ここ浜松城の中で、最も露骨な形で突きつけられていた。

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