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第138節『最初の撤退』

第138節『最初の撤退』

 谷間に、土と血の匂いが混じり合って漂っていた。

 雨に濡れた泥はぬかるみ、槍の石突きが突き立つたびに水飛沫を上げる。

 源次は殿軍の先頭に立ち、深く息を吸った。

 目の前に迫るは、武田軍の先鋒――まだ精鋭の赤備えは整わぬものの、数と勢いで圧してくる恐るべき追撃隊だった。

「構えろ! この隘路あいろを抜かせるな!」

 声を張り上げると、井伊の兵たちは一斉に槍を突き出した。

 狭い谷間では、数で勝る武田兵も一度に押し寄せられない。この地形こそが、源次が選んだ最初の罠だった。

(敵は勢いに任せて追ってくる。だが、この足場では必ず動きが鈍る――)

 源次は漁師だったころの感覚を呼び覚ましていた。

 濁流の流れを読み、網を仕掛けるように。人の流れもまた、地形という名の罠にはまるのだ。

「突けっ!」

 槍の列が一斉に伸び、先頭の武田兵が泥に沈んだ。背後から押す兵も、足を取られ、次々に倒れていく。

 怒声、金属のぶつかる音、雨に混じって響く血の臭気。

 源次自身も槍を構え、目前に迫った敵兵を払いのけた。刃が肩口をかすめ、冷たい痛みが走る。

(うわ、今、死んでもおかしくなかったぞ! 心臓止まるわ!)

 一瞬の本音が脳裏をかすめる。だが、顔には決して出さない。

「持ちこたえろ! 合図を待て!」


 やがて、谷の上――山道から轟音が響いた。

 大木が転がり落ち、岩とともに武田の追撃路を塞ぐ。

「新太か! よし、今だ――退け!」

 源次の号令に、井伊兵は一斉に後退を開始した。敵は混乱し、追撃の勢いを削がれる。

 その刹那を逃さず、井伊軍は次の隘路へと駆け抜けた。


 山中の隠れ家に辿り着いたとき、夜はすでに更けていた。

 焚き火の灯りのもと、兵たちは泥と血にまみれた姿で腰を下ろす。

 中野直之が点呼を取る。

「死者、六。負傷者、十余名」

 報告に、誰もが息を呑んだ。

 数千が入り乱れた激戦の中で、この損害は奇跡に等しい。だが源次の胸は、鉛を呑んだように重かった。

(……六人、死なせてしまった)

 冷徹な軍師であろうとした。だが、失われた命の重みが現実となって胸に突き刺さる。

(直虎様……申し訳ありませぬ。あなたの民を……守りきれなかった……!)

 「軍師様のおかげだ! 命拾いした!」「こんな撤退戦、聞いたことがねえ!」

 兵たちの声が上がる。普段は寡黙な中野直之ですら、火に照らされた顔に素直な感嘆を浮かべた。

「源次殿……見事であった。あれほど整然と退いた軍、見たことがない」

 源次は槍を地に突き、荒い息を整えた。

(……今は顔を上げるんだ。俺がここでうつむけば、士気に関わる)

 疲労で手が震えた。だがその震えは、安堵と悔恨の証でもあった。


 その頃、夜の浜松城。

 雨に打たれ、血と泥にまみれた徳川の兵が続々と城門へ戻ってくる。呻き声、担架、失われた旗指物。

「死傷者、およそ半数……大久保様も、本多様も深手にて……」

 報告の声に、城内は重苦しい沈黙に包まれた。

 家康は、唇をかみしめていた。緒戦でこれほどの被害――完膚なきまでの敗戦を悟らざるを得ない。

 そのとき、物見から新たな報告が届いた。

「井伊勢、損害は軽微にて、隊列を崩すことなく退却に成功したとのことにございます」

「……何だと?」

 家康の声はかすれた。

 自軍が半壊する中、井伊軍だけが整然と退いたというのか。

 衝撃と屈辱、そして底知れぬ畏怖が胸を満たした。

(合戦において、最も多くの犠牲が出るは退き口と相場が決まっておる。追撃を受け、統制を失い、背中から斬られていく。その地獄の中で、井伊の軍だけが隊列を維持し、最小限の被害で撤退を完了させた。あの源次という男は、ただの軍師ではない。敗戦すらも自らの戦術の一部として組み込む、恐るべき将帥しょうすいよ……)

 源次という男の名が、否応なく家康の心に深く刻まれていく。


 嵐はまだ続く。

 だが、井伊軍は生き残った。

 その異質な手腕と結果が、敗戦に沈む徳川家中に、次なる波紋を広げていくのはもはや避けられなかった。

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