第137節『井伊軍の奮戦』
第137節『井伊軍の奮戦』
冷たい雨が戦場を洗っていた。
泥と血が混じり合い、敗走する兵の足音と絶望の叫びが乱雑に響き渡る。
徳川の本隊は完全に総崩れとなり、誰もが我先にと浜松城を目指して駆けていた。
その混乱の中、ただ一つ、異様な秩序を保つ隊列があった。
井伊の兵である。
源次が合図の法螺を短く吹かせた瞬間、彼らはまるで訓練のように整然と動き出した。
それは、源次が日々の訓練で徹底的に叩き込んだ、独自の撤退戦術だった。兵士たちは三人一組となり、互いの背を守るように小さな円陣を組みながら後退する。一人が槍で敵を牽制し、一人が弓で援護し、一人が負傷者を助ける。この「鉄の三角」がいくつも連なり、決して背後を見せることなく、敵の追撃を巧みにいなしていく。
さらに、源次の掲げる軍配の色が変わるたび、部隊の動きが一変した。赤ならば前進して一撃、青ならば後退して防御、黄ならば弓隊が一斉射撃。言葉の通じぬ喧騒の戦場で、色と音だけを頼りに部隊を自在に操るその様は、傍らで逃げ惑う徳川の敗残兵たちには、理解不能な魔法のような采配に映った。
「な、なんだ……負け戦だというのに、列を乱さず退いている……?」
「あれは……井伊の兵か? 同じ味方とは思えん動きだ」
源次は、混乱する徳川兵の一部を意図的に自軍の列に取り込ませ、あたかも味方を保護するかのように動かしていた。
「前へ出ろ、走れ! 命が惜しいなら、我らの後に続け!」
声を張り、敗残兵を押し出すようにして隊列の先頭へ導く。
それは追撃を受ける際の「人の盾」となる非情な策であると同時に、井伊の精強さを徳川の兵に見せつけるための、計算された示威行為でもあった。
谷間に差しかかったとき、武田軍の先鋒が背後に迫った。
「追え! 徳川を逃すな!」
鬨の声が雨に響き、槍の列が地鳴りのように押し寄せてくる。
その正面に、中野直之が立ちはだかった。
「ここで止めるぞ、続けい!」
矢が一斉に放たれ、崖上からは石が転がされる。
武田の先陣が足を止めた刹那、中野の兵が横合いから突擊した。
「押せ、退け!」
一撃を加えると、深追いせず、すぐさま退却する。敵を誘い込み、また矢と石で迎え撃つ。それは源次が事前に指示した「ヒットアンドアウェイ」そのものだった。
(よし……見事だ)
武田の追撃将は眉をひそめた。
「……ただの敗残兵ではないな。統率がある。何者だ、あの一団は」
追撃の流れは寸断され、井伊の本隊は山中へと進む貴重な時間を得た。
ようやく木立の陰に身を潜めたとき、中野直之が馬を寄せてきた。
「源次殿……一つだけ問わせてくれ。我らはなぜ浜松へ戻らぬのだ? 皆がそこへ退いているではないか」
源次は地図を広げ、濡れた指先で浜松城の一点を示した。
「中野殿、考えてみてください。皆が浜松へ逃げ込むということは、武田もまたそこを狙うということです」
直之は息を呑む。
源次は静かに言葉を続けた。
「傷ついた兵が雪崩れ込めば、城は混乱の渦と化す。そこはもはや避難所ではなく、狩人が獲物を仕留めるために張った罠の檻のようなもの。我らまでその中に入る必要はありません」
中野は唇を噛みしめた。「では……我らはどこへ? 浜松を見捨てるのか」
源次は静かに首を振った。その瞳には、冷徹な光が宿っていた。
「見捨てるのではありませぬ。今は合流せぬ、というだけです。徳川の者たちから見れば、我らは盟友を盾にして逃げた、卑劣な裏切り者に見えるでしょう。……それで構いませぬ」
直之は目を見開いた。
源次は地図の別の道を指し示す。
「我らが別行動を取ることで、武田は我らの動きを探るために兵を割かねばならなくなります。敗残兵が二手に分かれれば、追撃する側も力を分散させざるを得ない。結果として、浜松へ向かう徳川本隊への圧力も、わずかながら弱まる。――我らは、非難されることで、結果的に徳川を助けるのです」
その言葉に、直之は戦慄した。
(そういうことか……。徳川を盾にするという非情な策の裏に、敵の追撃を分散させるという、さらに深い意図が隠されていたとは……。この男、どこまで先を読んでいるのだ)
「我らが為すべきは、犬死にすることではなく、兵を一人でも多く生かして浜松へ帰り着き、来るべき次の戦に備えること。そのための、最善の道にございます」
中野は、もはや何の疑問も口にしなかった。
「……承知した。軍師殿の采配に、全てを預ける」
兵たちも黙って頷き、泥に濡れた槍を握り直した。
再び雨音だけが森を満たす。
彼らが選んだ道は、一見すると裏切りのように見えた。だがそれは、井伊家が生き残り、そして盟友としての義理をも果たすための、唯一の道であった。