第136節『指揮系統の崩壊』
第136節『指揮系統の崩壊』
地鳴りのような鬨の声と、刃がぶつかり合う甲高い金属音が、遠州の原野を埋め尽くしていた。
徳川軍は、武田軍の鶴翼の陣による包囲を受け、完全に混乱の渦中にあった。先陣を切った大久保忠世の隊は孤立し、左右から押し寄せる赤備えの波に呑み込まれようとしている。
「退くな! 押し返せ!」
徳川の武将たちは必死に声を張り上げるが、その声は味方の悲鳴と敵の怒号にかき消されていった。
後方の丘の上で、源次は唇を噛み締めていた。軍配を握る手が白くなる。
(やはりこうなったか……。武田の戦術は、まさに教科書通り。だが、その完成度は俺の想像を遥かに超えている。これが、戦国最強と謳われた軍か……!)
隣では、中野直之が「……なぜだ。なぜこうも一方的に崩れる」と、信じられぬ光景に歯噛みしている。
源次は、彼の問いに答える暇もなく、井伊の兵たちに指示を飛ばした。
「弓隊、構え! 徳川の左翼を援護しろ! 敵の足を止めるだけでいい、深追いするな!」
井伊の弓隊から放たれた矢が、武田軍の側面に突き刺さる。一瞬、敵の勢いが鈍った。だが、それは焼け石に水。武田軍は少しも動じることなく、後続の部隊が波のように押し寄せてくる。
その時、徳川本陣で悲鳴が上がった。
「御旗が……! 御旗が倒れたぞ!」
源次が目を凝らすと、徳川家康の馬印である「金扇」が、土煙の中に傾ぎ、やがて地に倒れ伏すのが見えた。
(総大将の旗が倒れる……それは、この時代の戦において、単なる旗一本の問題じゃない。全軍の士気が崩壊し、指揮系統が完全に麻痺することを意味する。つまり……敗北の決定的な合図だ!)
案の定、その光景を見た徳川の兵たちは、堰を切ったように逃げ始めた。
「殿が討たれたやもしれん!」「もう終わりだ、逃げろー!」
誰かが叫んだ恐怖の言葉が噂となって瞬く間に広がり、統制は完全に失われた。兵士たちは武器を捨て、我先にと浜松城を目指して敗走していく。
「持ち場を捨ててどうする! 戻れ!」
本多忠勝が鬼神のごとく槍を振るい、逃げる味方を押し留めようとするが、もはや誰の耳にも届かない。
戦は、終わった。いや、蹂躙が始まったのだ。
「……ここまでか」
源次は静かに呟いた。
だが、その瞳に絶望の色はない。むしろ、氷のように冷え切っていた。
(撤退計画を実行に移す。ここからが、俺の本当の戦だ)
彼は懐から法螺貝を取り出し、天に向かって短く、鋭く吹き鳴らした。
その音は、敗走の喧騒の中にあって、不思議なほどはっきりと井伊の兵たちの耳に届いた。それは、事前に決められていた「計画開始」の合図。
「新太!」
源次が叫ぶと、別働隊を率いていた新太が馬を寄せてきた。その顔は泥と血にまみれているが、瞳はまだ死んでいない。
「聞いたな。山道へ向かえ。追撃を食い止めろ」
「承知!」
新太は短く応えると、部隊を率いて森の中へと消えていく。
「中野殿!」
源次は、戦況を見据えていた中野直之の肩を強く叩いた。
「我らも退くぞ! 本隊を率い、街道へ! 徳川の連中を盾にしながらでも進め!」
中野ははっと我に返り、悔しげに顔を歪めながらも、力強く頷いた。
そして源次は、手元に残った数十の兵に向き直った。
「俺たちは殿だ。死ぬなよ。生きて、この地獄を切り抜けるぞ!」
「おおっ!」と、兵たちの短い鬨の声が上がった。
敗戦という絶望的な状況下で、井伊の軍だけが、次なる目的のために静かに、そして迅速に動き始めていた。その姿は、混乱する戦場の中で異様な光を放っていた。