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第135節『開戦』

第135節『開戦』

 秋の冷たい風が、遠州の原野を震わせた。

 朝靄がまだ薄く漂う中、数万の兵が鬨の声を上げ、乾いた土を蹴立てて進軍する。鬨の声と蹄の響きが重なり、地面が揺れていた。

 その先頭近く、徳川家康は馬上で鋭い眼光を放ち、声を張り上げた。

「全軍、突撃せよッ!」

 法螺貝が轟き、太鼓が乱打される。

 大久保忠世をはじめとする徳川の猛将たちが旗指物を翻し、槍を構えて一斉に前進した。三河武士たちは血が沸き立つような昂揚感に酔い、我先にと駆けだしていく。


 その光景を、後方の丘から源次は見つめていた。

(始まった…! やはり鶴翼の陣か!)

 源次は唇を噛んだ。軍議での徳川武将たちの「正面から雌雄を決する」という言葉通り、両翼を広げ敵を包み込む、最も攻撃的な陣形。だが、それは同時に、敵からの奇襲に対して最も側面が脆くなる、諸刃の剣でもあった。

(うわ、マジかよ…教科書でしか見たことない鶴翼の陣だ! しかも、これから戦国最強の武田軍に粉砕される、負け戦の見本みたいなやつ! 歴史の特等席じゃねえか! ……いや、馬鹿! 何を興奮してる! あれは死に行く人間の群れなんだぞ!)

(馬鹿正直すぎる…! これでは『両翼から来てください』と言っているようなものだ! 正面の敵に釘付けにされた瞬間、左右から呑み込まれるぞ! まだだ、井伊隊はまだ動くな! 徳川の前衛が崩れるまで耐えるんだ!)


 鬨の声が大地を震わせる。土煙がもうもうと立ち、空を黒々と覆った。馬の嘶きが混じり、槍がぶつかり合う金属音が鳴り響く。

 やがて、正面衝突の瞬間――。

 武田軍の陣から、低く唸るような太鼓の音が響いた。

 その途端、左右の林から真紅の鎧――赤備えの軍勢が津波のごとく現れる。

「なッ……!」

 徳川軍の突撃隊は、一瞬で両翼を包囲され、槍の穂先に貫かれていく。

 矢の雨が空を覆い、黒い雲のように舞い降りた。鉄臭い血の匂いが漂い始め、呻き声があたりに満ちる。

 大久保忠世が先陣で奮戦するも、左右から押し寄せる兵に孤立し、馬ごと引き倒された。刀と槍が乱れ飛び、味方の叫びと怒号が混じり合う。


 源次はその地獄を丘の上から見下ろし、胃の奥がひっくり返るような吐き気を覚えた。

(地獄だ…! これが本物の戦国時代の合戦か…! 人が、ゴミのように、あっという間に死んでいく! だが…見てしまっている。俺は、歴史が生まれる瞬間を、神の視点で見ている…! 吐き気がするほどの恐怖と、脳が焼けるほどの興奮が、同時に俺を支配している!)

 だが、その感情の奔流のさらに奥底で、氷のように冷たい声が響く。

(それでも俺は冷静でいなければならない。一人でも多く、直虎様のもとへ兵を返す。そのために、俺はここにいるんだ!)


 (これが……本物の武田軍の戦か……! 甲州法度之次第に裏打ちされた鉄の規律、そして信玄が築き上げた戦国最強の組織力。それは一人の天才が率いる軍隊じゃない。戦うためだけに最適化された巨大な機械だ。俺の知識なんて、この現実の前では……紙切れ同然だ!)

 土埃と血煙で視界は赤黒く染まり、鼻腔に鉄錆の匂いが張りつく。耳は割れるような叫声と法螺貝に支配され、手にした軍配の柄も汗で滑った。

 戦場は瞬く間に崩壊した。

 先陣の徳川兵が次々と倒れ、後方の兵たちまで総崩れとなり、叫びながら逃げ出す者が出始める。


 源次は唇を噛み切り、口中に血の味を覚えた。

「中野殿!」

 傍らに控える中野直之が、驚愕と恐怖を滲ませて振り返る。

「計画通り、退却の狼煙を! 全軍に伝えよ……これよりは『負け戦』を始めると!」

 その声は、戦場の喧噪の中に掻き消されそうでありながら、確かに響いた。

 ――地獄の中で、源次の孤独な戦いが、いま始始まろうとしていた。

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