第134節『敗戦の予測』
第134節『敗戦の予測』
鬨の声が、陣幕の外から波のように押し寄せていた。
三河武士たちが声を張り上げ、鬱屈した寒空を震わせる。彼らの胸は勝利への期待で膨れあがり、酒気にも似た熱気が漂っていた。
源次は軍議の場に膝をついたまま、深々と頭を下げていた。
「素晴らしきご決断にございます! 我ら井伊も、三河武士の勇猛さに倣い, 槍働きにて必ずや武功を立ててみせましょう!」
声は張り, 笑みも浮かべている。だが, その裏で瞳は冷めきっていた。
(茶番だ……。だが, この茶番を演じなければ, 徳川方に怪しまれ, 俺たちの本当の準備が潰される。ここは従順な道化を演じ切るしかない)
大久保忠世が満足げに頷き、膝を打った。
「うむ、分かっておるではないか。井伊の若き軍師とやら、よう心得ておる!」
周囲の武将たちも笑い、盃を掲げては勝利を誓い合っている。その熱気はまるで酒場のようで、これから命を賭して戦場に向かう者たちの姿には到底見えなかった。
(こいつら、完全に浮かれてやがる……! これから地獄に踏み込むってのに、まるで遠足気分かよ!)
源次の胃はきりきりと痛んだ。だが顔には出さない。徳川の将たちと交わす握手は力強く、笑みもまた堂々としていた。
(この握手も、所詮はうわべ。だが、時間を稼ぐには必要な芝居だ。俺が本当に握りしめたいのは、井伊谷へ続く生き残りの道…その地図だ)
そう考えながら、源次は井伊の陣に戻ると、兵たちに耳打ちした。
「武具の手入れを怠るな。槍も刀も、錆ひとつ許すな。兵糧は一度分け直し、身軽にしておけ。……いざという時、すぐに動けるようにな」
その指示に、兵たちは顔を見合わせたが、誰も疑問を口にしなかった。彼らは知っている。自分たちの軍師が、決して嘘を言わぬことを。
夜。冷たい風が天幕を揺らし、油皿の灯が心細く揺れていた。
源次は自らの天幕に中野直之と新太を呼び寄せた。二人は緊張の面持ちで座り込む。
地図を広げると、源次はその上に手を置き、静かに告げた。
「明日、我らは負ける」
短い一言に、直之と新太は息を呑んだ。
源次は地図を指し、二人に向き直った。その目は、敗北を語っているとは思えぬほど冷静だった。
「勘違いしないでいただきたい。これは、ただの逃走計画ではない。『遅滞行動』――負けを前提としながら、いかに敵の足を止め、味方の損害を減らすかという戦術です」
彼は地図上の隘路や川を指し示す。
「徳川軍は無秩序に浜松城へ逃げるでしょう。武田はそれを追い、一本の巨大な蛇となる。我らはその蛇の胴体を、横から何度も、何度も叩く。そして……」
源次は一度言葉を切り、声を潜めた。その声音には、氷のような冷たさが宿っていた。
「徳川の敗残兵を、我らの『盾』とします」
「……何だと?」
直之と新太の顔が凍りついた。
「敗走する徳川兵は、武田にとって格好の餌です。我らは彼らを追い越さず、あえて彼らの背後につき、彼らが武田の追撃を引きつけている間に、我らは安全な脇道へ逸れる。つまり――見捨てるのです」
天幕の中の空気が、凍り付いた。それは盟友に対してあまりにも非情で、武士の道に反する策だった。
「源次……お前、本気か」新太が呻くように言った。
「本気です」と源次は即答した。
(言った……言ってしまった。頭の中では、これが最善手だ。軍師としては当然の判断。だが、本当に俺にできるのか? 目の前で盟友が斬られていくのを見捨てて、平然と逃げることができるのか? 血の匂いも、悲鳴も、平和な時代を生きてきた俺の魂が、果たして耐えられるのか……?)
指先が、地図の上で微かに震える。
(だが、やるしかないんだ! 彼らは我らの警告を無視し、自らこの地獄を選んだ。ならば、その責任は自らで取ってもらう。我らが彼らに付き合って犬死にする義理はない。俺の殿軍は、井伊の兵を守るための殿軍だ。徳川の兵を守るためのものではない。そうだ、これは直虎様を守るために、俺が鬼になるための、最初の試練なんだ……!)
唇を固く結び、源次は続けた。「……中野殿、新太殿。お二人に全てを託す」
二人はしばらく言葉を失っていたが、やがて膝を正し、深く頭を下げた。
「承知した。……その汚れ仕事、我らも共に背負おう」
「必ず役目を果たす。井伊のために」
その瞬間、井伊の陣に静かで冷徹な決意が満ちた。外ではまだ徳川方の笑い声が響いていたが、この天幕の中だけは別世界だった。
やがて夜更け。物見が駆け込み、陣を揺るがす声を上げた。
「武田本隊、西方の一言坂に布陣!」
陣中にざわめきが走り、次いで大地を震わすような鬨の声が上がった。徳川兵は勝利を確信し、刀を振り上げ、天を仰いで吠える。
その熱狂の渦から離れ、源次は一人、天幕を出た。
西の空を見上げると、厚い雨雲が迫りつつあった。
(嵐が来る……血の雨の嵐がな。だが、好都合だ。この闇と雨が、俺たちの逃げ道を隠してくれるだろう)
風が頬を打ち、冷たさが骨まで染みた。だが、その冷たさこそが、源次には確かな武器に思えた。
背後では鬨の声がまだ続いている。熱狂と歓喜、そして未来の死の匂いが入り混じった異様な空気。
源次はその全てを背にして、ただひとつのことだけを胸に誓っていた。
(負ける。だが、生き延びる。……必ずだ!)
決戦前夜の闇が、静かに陣を覆っていった。