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第133節『家康の決断』

第133節『家康の決断』

天幕の中は、異様な静けさに包まれていた。

軍議が決裂してから、すでに半日が過ぎている。武田軍がどこまで進んでいるか、正確な報せはまだない。だが、耳を澄ませば外の風の音さえやけに鋭く、甲冑の鎖が擦れる音までが耳を刺すように聞こえてくる。

油皿の炎は小さく揺れ、灯りに浮かび上がった武将たちの顔は、沈黙という名の鎖に縛られていた。

徳川方と井伊方。二つの陣営は互いに一言も交わさず、ただ相手を意識して睨み合う。

源次はその中心で、目を閉じていた。


(家康は、岡崎で俺の知略を評価してくれた。兵糧線を断つ策の合理性は、必ず理解しているはずだ。合理的に考えれば、俺の策を選ぶはずだ……!)

それは表の意識――細い糸に縋るような希望だった。

だが次の瞬間、胸の奥で別の声が響く。

(いや、駄目だ。あの男は根っからの武人だ。先の敗戦で多くの家臣を失った自責の念から、雪辱を焦り、冷静な判断力を失いかけている。家臣たちの前で、臆病と見える選択をできるか? しかも、あの豪放な性格……武田信玄と正面から槍を合わせたいという衝動を、抑えられるはずがない…!)

その冷徹な予測に、胃の奥が重く沈む。

さらに深いところから、もっと切実な叫びが這い上がる。

(この決断は、俺が知る歴史の中で幾度も繰り返された大敗への序曲だ。直虎様…! 俺は、あなたを、そしてあなたの大切な兵たちを、この地獄に巻き込むことになる。どうすれば…どうすればこの未来を変えられる!?)

三重に折り重なった思考が、源次を締め付ける。

手のひらは汗でじっとりと濡れ、背の甲冑は鉛のように重かった。


そのとき――。

遠くから、地を叩く蹄の音が響いた。

最初は風の唸りかと思ったが、次第に近づき、天幕の中の誰もが息を呑む。

やがて、土煙をまとった早馬が陣に駆け込む姿が見えた。

「――来たぞ!」

誰かの声に、武将たちの目が一斉に輝く。

緊張が空気を震わせた。汗と鉄の臭気がさらに濃くなり、息苦しいほどだった。

使者は泥と汗にまみれながら天幕へと駆け込んだ。懐から取り出したのは、一通の書状。封蝋には、見慣れた徳川の葵の紋。

全員の視線が、その小さな紙片に集中する。

源次の喉は乾いていた。息を呑むと、紙の音までが聞こえる気がした。

大久保忠世が使者から書状を受け取ると、堂々と立ち上がった。

彼の指が封を切る音が、やけに大きく響いた。

油皿の炎が揺れ、影が長く伸びる。

忠世は声を張り上げ、読み上げた。


「――源次の策、理には適う。されど……!」


一瞬の間。源次の心臓が止まる。


「されど、我が三河武士の誇りは、野戦にこそあり! 信玄の首、この家康が自ら獲ってくれるわ! 全軍、野戦の備えをせよ!」


瞬間、地鳴りのような轟きが天幕を揺るがした。

「おおおおお!!」

鬨の声。甲冑が打ち合わされ、兜が叩かれる。徳川の武将たちは互いに肩を組み、勝利を確信したかのように叫び、笑い、歓声を上げた。

その熱狂は嵐のように広がり、天幕の布が震えるほどだった。


家康は、その熱狂の中心で静かに目を閉じていた。彼の脳裏には、源次が示した合理的な策と、今まさに歓喜に沸く家臣たちの顔が、天秤のように揺れ動いていた。

(……源次殿、すまぬな)

彼の心は、誰にも聞こえない声で呟いていた。

(そなたの策が正しいことは、儂が一番よく分かっておる。だがな、この三河武士という生き物は、理屈だけでは動かせぬのだ。彼奴らは、儂のために死ぬことを誉れとする。先の敗戦で儂が頭を下げたからこそ、今度は彼奴らの『誇り』に応えね-ばならん。それこそが、棟梁としての儂の務め)

それは、敗戦の責任を認めたからこそ、今度は家臣たちの「誇り」に応えねばならないという、棟梁としての政治的判断だった。そして、その奥には、源次という異才への、隠された対抗心も渦巻いていた。

(この戦、そなたの策に乗るだけでは、儂はただの飾り人形よ。それでは、この三河武士団はついてこぬ。ここで一度、儂の「武」を示す。それこそが、そなたという『知』を完全に使いこなすための、主君としての儂の務めなのだ!)


しかし――。

井伊の陣は凍り付いたまま、動かない。

中野直之は顔を覆い、唇を噛みしめた。

「愚か……愚かすぎる……!」

その嘆きも、鬨の声にかき消される。


源次は、ただ立ち尽くしていた。

耳には歓声が響いている。だが、彼の脳裏には別の音が鳴り響いていた。

刀と槍がぶつかり合う金属音。矢の飛ぶ音。血の噴き出す音。

そして――敗走する兵の悲鳴。

未来の戦場が、目の前に鮮烈に広がっていた。

指先が震える。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。

痛みでようやく意識が現実に戻った。


(終わった……。俺の知る最悪の未来へ、道を選んでしまったか)

心臓の奥底から冷たい絶望が広がる。

(この男は、俺の合理的な策よりも、家臣たちの心を掴む『武』を選んだ。武将としては、あるいは正しい判断なのかもしれん。だが、その結果がどうなるか、俺だけが知っている……)

だが――。

(まだだ。まだ終わらせない。負けることが決まったのなら、俺の仕事はただ一つ。この地獄の中から、いかにして直虎様の兵を一人でも多く生きて帰らせるかだ……!)


源次の瞳には、歓喜に酔う武将たちの姿が映っていた。

だがその中で、彼の心は氷のように冷えていた。

懐に忍ばせた地図の感触を確かめる。紙の冷たさが、妙に現実的だった。

歓喜と絶望。熱狂と静寂。

その二つが同じ天幕の中で渦巻き、決定的な亀裂となって広がっていった。

――総大将の決断によって連合軍が大敗への道を歩み始めたその瞬間、源次の脳裏には、この地獄を生き抜くための、あまりにも冷酷な策が静かに湧き上がってくるのであった。

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