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第132節『軍議での対立』

第132節『軍議での対立』

 薄暗い天幕の中、油皿の炎がゆらめき、地図の上に赤と黒の影を踊らせていた。

 鉄と革の匂い、そして籠った汗の臭気が空気を重くしている。武将たちの息遣いは荒く、まるで既に戦場に立っているかのようだった。

 源次は広げられた地図の前に進み出て、指先で駿河から遠江へと伸びる街道をなぞった。

「皆様。武田軍は大軍ゆえ、その腹は常に飢えております。推定三万。その兵糧消費は一日に米九百石。運搬には馬五百に人足千を要すと見積もられます」

 声は抑揚を抑えた冷静さを帯びていた。

(冷静にだ。感情に訴えてはならぬ。彼らの矜持を逆撫でせず、数字と理で説得するしかない)

「つまり、武田の進撃速度は、その補給路の確保に縛られる。ここ、天竜川沿いの渡し。あるいは二俣城を経由する街道。これを断てば、いかに精強な軍といえども、一週間も持ちませぬ」


 場が一瞬だけ静まり返った。

 やがて、武骨な顔に幾筋もの傷跡を持つ大久保忠世が立ち上がった。「――小賢しい!」

 怒声が天幕を震わせた。「鼠のように敵の背後を嗅ぎ回るなど、武士の戦ではない! 我ら三河武士の本懐は、正面より槍を合わせ、敵を討ち倒すことにある!」

 周囲の武将たちも一斉に「然り!」「正々堂々と!」と声を上げる。

 (きたか、精神論……! だからあんたらは三方ヶ原で信玄に粉砕されるんだよ!)

 源次の内心が激しく叫ぶ。しかし、表情は崩さず、声を張る。「勇猛と無謀は紙一重にございます。兵力差は明らか。野戦は自殺行為にございましょう」

「黙れ!」忠世が机を叩き、地図の駒が跳ね上がる。「臆病風に吹かれおって! 武田が攻め来るなら、この平野で堂々と迎え撃ち、雌雄を決する! それが三河武士の道よ!」


 忠世はさらに言葉を重ねた。その声には、怒りだけでなく、彼らなりの美学が込められていた。

「井伊の軍師殿! 貴殿の策は正しいのかもしれん。だが、我らには我らの死に場所がある! 殿の御前で無様な戦いを見せるくらいなら、たとえ犬死にと笑われようと、正面から敵にぶつかり、華と散ることこそが、我ら三河武士の誉れ! その生き様を、貴様に否定する権利はない!」

(この時代の武士、特に三河武士団のような結束の固い集団にとって、「正々堂々とした野戦」こそが武士の本分であり、最大の誉れなのだ。兵站を攻撃するような戦術は、戦の主役たる武士ではなく、忍びや下賤の者が行う「裏の仕事」と見なされる。俺の策は、彼らの存在意義そのものを否定しているに等しいのか…)


 その言葉に、中野直之が堪えきれずに口を開いた。「待たれよ! 我ら井伊は既に源次の策に従い動いておる。卑怯ではない、知略だ! このまま正面でぶつかれば、井伊も三河も共倒れぞ!」

 しかし直之の声も、周囲の嘲笑に掻き消される。「ふん、井伊ごときが戦を語るか」


 (ああ、もう! めんどくせえ! 俺一人でやった方が早い! でも……)

 目を閉じ、直虎の面影を思い浮かべる。(違う……井伊だけでは勝てぬ。彼らを動かねば、直虎様を守ることはできない。俺は絶対に引かん!)

 源次は息を吸い込み、再び地図の上に手を伸ばす。「皆様。どうか一度お考えくだされ。野戦で勝つには兵力差を覆す奇策が必要にございます。ですが、武田はその野戦を最も得手とする相手。ならば、戦場を選ぶのはこちら。補給を断ち、動きを鈍らせた上で叩く。それこそが、勝利の唯一の道!」

 しかし忠世は鼻で笑った。「理屈はもっともらしい。だが、武功はどう立てる? 背後から糧道を襲って手柄と言えるか? 我らは殿の家臣。武名を汚す戦をする気はない!」

 (……くそ。結局、プライドと武功か)

 源次は唇を噛む。

 最後に忠世が高らかに言い放つ。「この儀、もはや議論は無用! 殿にご裁断を仰ぐのみ!」

 その言葉に誰も逆らえなかった。

 (家康……あんたの選択一つで、この軍は生きも死にもする。さて、どちらを選ぶ……?)

 やがて早馬が用意され、両案を記した書状が託される。連合軍の運命は、浜松城にいる一人の総大将の判断に委ねられたのだった。

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