第130節『出陣命令』
第130節『出陣命令』
評定の間には、地図が広げられていた。
天竜川の青い筋、二俣城を威圧する武田の赤い印、さらにその背後へと伸びる補給路――。蝋燭の炎に照らされた線は、血管のように城を取り巻いていた。
源次は、緊張に満ちた家臣団の視線を一身に受けながら、扇の先で地図を指した。
「我らは三手に分かれます」
声は低く、だが確かな力を帯びていた。
「第一に、中野殿率いる本隊は、正面より二俣へ向かう。狙いは敵を惑わし、陽動に徹すること。武田に、『井伊が愚かにも正面から救援に来た』と思わせればよい」
中野直之は膝を正し、深々とうなずいた。その眼には、武断派の血が滾っていた。
「第二に、新太殿率いる遊撃隊。山道に潜み、敵の小荷駄隊を襲撃せよ。大軍は兵糧なくば戦えぬ。繰り返し斬り込み、敵を飢えさせるのだ」
新太は腕を組んだまま、苦笑を浮かべた。「かつて仕えた主の腹を断つとはな。……だが承知した。俺の部隊、影の如く動かしてみせよう」
家臣たちはざわめいた。だがすぐに沈黙が訪れる。全員が問いを胸に抱いていた。「では……本命は?」
その声を待っていたかのように、源次はゆっくりと地図の一点へ扇を滑らせた。
「本命は、私が率いる精鋭。狙うは――信濃と遠江を結ぶ、兵糧の集積地ただ一点。ここを焼き払えば、武田の本隊は前進も退却もできなくなる」
この作戦の肝は、戦国時代の常識を覆す点にあった。通常、小勢力が大軍に挑む際は籠城するか、援軍を待つのが定石である。しかし源次の策は、敵の主戦力である二俣城包囲軍をあえて無視し、その生命線である補給基地を直接叩くというものだった。これは、敵の意表を突くと同時に、失敗すれば全軍が孤立無援となる、極めて危険な賭けであった。
「無茶だ……!」誰かが呻いた。だが別の者は拳を握りしめた。「いや、やれる。これなら勝てる!」
評定の間に、戦場に似た熱が走った。
直虎は静かに立ち上がり、家臣たちを見渡した。「全軍、軍師・源次の指揮に従え!」
その言葉が落ちた瞬間、外から法螺貝が鳴り響いた。低く長い響きが城下を震わせ、兵たちの胸を打つ。鬨の声が湧き上がり、甲冑の音が連なった。
出陣の喧騒の中、源次はまず中野直之の前に進み出た。
「中野殿。この作戦、殿の武勇なくしては成り立ちませぬ。どうか、ご無理はなさらず」
その丁寧な声かけに、直之は無骨に頷いた。「ふん、案ずるな。おぬしが本命を突くまでの時間、この中野直之が命に代えても稼いでみせよう」
その目には、揺るぎない信頼が宿っていた。
次に、源次は新太のもとへ歩み寄った。彼は一人、壁に立てかけた槍をじっと見つめていた。その横顔は、いつになく硬い。
「新太。最も危険な役目を引き受けてくれて感謝する。……死ぬなよ」
新太はゆっくりと振り返った。その目には、戦への昂りだけでなく、深い葛藤の色が浮かんでいた。
「源次……俺は、武田に牙を剥く。それは、お前と井伊谷を守るためだ。だがな…」
彼は槍の柄を強く握りしめた。「もし戦場で、かつて同じ釜の飯を食った者と出会ったら…その時、俺の槍は鈍るかもしれん。すまぬが、それだけは覚えておいてくれ」
それは、猛将が見せた唯一の弱さだった。源次は、彼の肩にそっと手を置いた。
「構わん。お前の心までは縛れん。ただ、生きて帰ってこい。それだけでいい」
新太は、源次の目を真っ直ぐに見返し、力強く頷くと、不敵な笑みを浮かべた。
「お前もな、源次。でかい獲物を前に、しくじるんじゃねえぞ」
二人の間に流れたのは、多くを語らずとも互いの覚悟を理解する者同士の、緊張感をはらんだ空気だった。
やがて、城門。冬の風が頬を刺し、重い音を立てて門が開くと、軍勢がざざっと動いた。
その前に、直虎が一人で立っていた。彼女は何も言わなかった。ただ、深々と頭を下げた。領主として、そして一人の人間として――最大限の感謝と信頼を込めて。
(直虎様……あなたのために、俺はこの戦、必ず勝ってみせます!)
源次は拳を固く握り、馬首を返した。城門が閉まる重い音が、背中にのしかかる。その重みは、全軍の命を預かる責務の重さだった。
だが、彼は振り返らなかった。
(…お前の母を追いやった男、武田信玄。その男の軍と、お前は今から戦う。これもまた、乱世の宿命か。だが、俺がいる。お前のその宿命、俺が必ず支えてみせる)
井伊家の存亡を賭けた前代未聞の作戦が、今まさに始まろうとしていた。