第13節『直虎の評定』
第13節『直虎の評定』
朝の訓練を終え、汗を拭いながら兵舎へ戻ろうとしていた源次の耳に、不意に低い声がかかった。
「――源次。お主、こちらへ参れ」
振り向くと、鎧直垂を着た中年の武士が立っていた。
井伊家の中でも古株の一人で、足軽たちからも一目置かれる人物だ。
源次は慌てて槍を脇に立てかけ、膝を折って頭を下げる。
「はっ、何かご用でしょうか」
「近侍の一人が急病での。姫様の側に控える者が一人足りぬ」
武士は淡々と告げた。
「お主は口が堅く、落ち着きもある。末席でよい、ただ控えておれ。決して口を開くな。――評定の間じゃ」
源次は息を呑んだ。
(……評定!? あの、歴史ドラマでしか見たことないやつ!? しかも直虎様のすぐ近くで!)
心臓が跳ね上がる。
驚愕と、あり得ない幸運に対するオタク的興奮と、同時に「しくじれば命がない」という緊張感が胸を締めつけた。
「心得ました」
声を震わせぬよう答え、足取りを整える。
導かれるままに館の奥へと進む。
畳の香りが濃くなる。
格子窓から差し込む光は弱く、屋敷の空気は静まり返っていた。
そして――。
襖が開かれ、目の前に広がったのは、井伊家の政治の中枢。
評定の間だった。
既に数人の家臣が、定められた席に正座していた。
皆、裃や直垂をきちんと整え、帯刀し、姿勢は凛と引き締まっている。
その最上座、正面に――井伊直虎がいた。
浅黄色の小袖に、緋の袴。
長い黒髪を後ろで束ね、真っ直ぐに背筋を伸ばして座す。
その表情には、わずかな疲労を隠しながらも、若き女領主としての威厳が宿っていた。
「(……直虎様だ。本物の直虎様が目の前に……!)」
源次の胸が熱くなる。
推しをこの距離で拝めるなど、夢のような話だ。
だが同時に、背筋を氷の刃で撫でられるような緊張感が走る。
中年武士に促され、源次は末席に正座した。
場の隅から見ると、すべてが一望できる。
だが、空気は重い。
言葉を発してはならぬ――その戒めが、いっそう圧力を強めた。
やがて直虎が口を開いた。
「本日の議題は、徳川方との境に近い村にて、今川方の国衆による小競り合いが頻発しておる件――これに、いかに対処すべきか」
声は澄み渡り、凛としていた。
その瞬間、場の空気がぴんと張りつめる。
沈黙を破ったのは、屈強な体つきの若き武士だった。
中野直之――武断派の筆頭格である。
「なまぬるい! 断固として兵を出し、奴らを叩き出すべきにございます!」
力強い声が評定の間に響き渡る。
その言葉に呼応するように、数人の武断派家臣が声を上げた。
「左様! 見逃していては井伊の威光が地に落ちまする!」
「ここで示威せねば、他の国衆まで侮りましょう!」
声は怒号に近くなり、畳に響いて震えるほどだ。
対して、年配の文治派家臣が低い声で反論した。
「なりませぬ! 今、下手に兵を動かせば、徳川を刺激しかねませぬ。まずは使者を送り、穏便に解決を――」
「臆病者め!」
「机上の空論で戦が治まるものか!」
たちまち罵声が飛び交う。
武断派と文治派、二つの陣営が真正面からぶつかり合う。
源次は息を殺した。
(……これが井伊家の評定……。一枚岩どころか、真っ二つだ。下手をすれば、この家は内から崩れる……)
冷静な分析と同時に、押し潰されそうな緊迫感が胸を支配する。
目の前で繰り広げられるのは、ただの口論ではない。
一つの決定が、村一つを焼き払い、人の命を奪う。
それが当たり前のように語られる。
言葉の端々に、命の重みと責任が漂っていた。
やがて、直虎が声を発した。
「双方、控えよ!」
凛とした声が、怒号を一刀両断するように響いた。
その瞬間、全員がぴたりと口を閉じる。
直虎の顔には険しさがあった。
「兵を出すにせよ、穏便を図るにせよ、拙速は禍を招く。まずは村の被害を詳らかにし、国衆の出方を探るべきだ。今はそれが最上と考える」
折衷案。
だが、武断派からは「手ぬるい」と不満の声が漏れ、文治派からも「結論を先送りにしては混乱を招く」と囁かれた。
結局、明確な結論は出ぬまま、評定は終わりを告げた。
家臣たちは、それぞれに不満を抱えた顔で立ち上がり、襖の奥へと去っていく。
足音が遠ざかるにつれ、広間に残されたのは静寂だけとなった。
直虎は、一人きりで上座に残った。
その姿は、先ほどまでと変わらぬように見えた。
だが――ふっと、肩が落ちた。
張りつめていた表情がわずかに緩み、目元に深い疲労の影がにじむ。
その瞬間を、源次は見逃さなかった。
(……そうか。この人は……ただ気丈なだけじゃない)
若き女地頭として、男ばかりの家臣団を相手に、常に毅然と振る舞わねばならぬ。
けれど実際は、孤独と疲労を一人で背負い込んでいる。
源次の胸が締め付けられた。
(直虎様は、この割れた家臣団を、たった一人で背負っているんだ……)
ただの兵士であった自分。
だが、この人の力になりたい。
この孤独を、少しでも和らげたい。
源次は末席で、深く頭を垂れた。
それはまだ誰にも知られぬ、静かな誓いだった。