第129節『二俣城の緊張』
第129節『二俣城の緊張』
天竜川の流れは冬の光を鈍く反射していた。
その流れと二俣川に挟まれた二俣城は、天然の要害であるはずだった。だが今、その城下に緊張が走っていた。物見櫓に立つ徳川兵は、乾いた喉を鳴らす。北の山道から、断続的に武田の斥候が姿を現し、挑発するように旗を振っては消えていく。夜が訪れると、遠くの山裾に無数の篝火が燃え上がり、まるで炎の龍が城を窺っているかのようであった。
「……信玄の本隊か、それともただの脅しか」
城兵は呻いた。矢の備えはあるが、兵糧は長期戦に耐えられるほどではない。
「浜松からの援軍はまだなのか」「犬居城はどうした……? あそこが落ちれば、我らは武田との最前線になるぞ」「……もう落ちたと聞いた」
沈黙。誰も顔を上げられなかった。源次の予測通り、犬居城は武田に降った。城主の天野氏は武田に旧恩があったため、本格的な抵抗の前に城を明け渡したのだ。その結果、二俣城は完全に孤立し、天竜川の防衛線における最前線の砦と化してしまった。
(もはや、援軍は来ぬ……)
若き兵士の胸裏に、絶望が忍び寄った。
その頃、井伊谷の評定の間には香が焚かれ、薄い煙が漂っていた。だがその香りは心を鎮めるどころか、張り詰めた空気を濃くしていた。
そこへ駆け込む伝令の声。「二俣城より急報! 武田の先遣隊が城下に迫り、本格的な包囲の構えを見せております! 救援を請うとのことにございます!」
直後、中野直之が声を張り上げた。「盟友の危機を見過ごすは武士の恥! ただちに後詰を出すべきにございます!」
だが、すぐに反論が続いた。「我らを見捨てた徳川のために、なぜ血を流さねばならぬ!」「犬居城も落ちた。二俣に援軍など、虎の口に首を差し入れるも同じ!」
声がぶつかり合い、評定の間は騒然となった。
源次は沈黙を保ったまま、心を裂かれる思いで己を見つめていた。
(史実通りだ……。二俣城は武田の圧力に晒され、徳川は援軍を出せず、来年の本格侵攻でやがて落城する。そして、その次に武田の牙が向くのは……この井伊谷だ)
彼の脳裏には、歴史書で読んだ乾いた一文が蘇る。「元亀三年、三方ヶ原の後、井伊谷城もまた武田の猛攻の前に開城し、一時その軍門に降った」。
(開城……つまり降伏だ。来年、直虎様が、あの信玄に頭を下げることになる。領民は武田の支配に喘ぎ、井伊家は存亡の危機に立たされる……。俺が知る歴史では、そうなってしまうんだ)
(ここで援軍を送れば、史実通り無駄死にするだけ。だが、見捨てれば、次は俺たちの番だ。どちらを選んでも地獄……。いや、違う。史実を知っている俺には、選べるはずだ。この二つ以外の道を!)
さらに深層で、熱く燃える想いが突き上げる。(直虎様なら、どうされるだろう。たとえ見捨てられた相手でも、義理と人情を重んじる方だ。その顔に泥を塗るような真似は……俺にはできぬ!)
冷徹な軍師としての理、現代人としての感情、推しへの敬慕――三つの意識が胸で激突し、源次の掌は氷のように冷たくなっていた。
やがて議論は袋小路に陥った。直虎も決断を下せず、沈痛な面持ちで黙している。重苦しい沈黙の中、全員の視線が源次へと集まった。
地図を睨み続けていた源次は、やがてゆっくりと顔を上げた。その瞳には、決意の炎が宿っていた。
「……出陣いたしまする。ただし――」
一同が息を呑む。
「正面から二俣城の救援に向かうのではありません。我らの狙いは、敵の背後。武田の本隊ではなく、その『腹』を突くのです」
源次の言葉は、誰もが想像していなかった「第三の道」の始まりを示していた。それは、ただ籠城して来たるべき降伏を待つのでも、犬死に覚悟で援軍に向かうのでもない。小勢力である井伊家が、巨大な武田軍に対して最も効果的な一撃を与え、歴史の流れそのものを変えようとする、攻めの一手であった。
その策がどのようなものか、まだ誰も知る由もなかった。