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第128節『単独での備え』

第128節『単独での備え』

 井伊谷に、戦の槌音が響き渡った。

 徳川からの返書により、同盟への期待は完全に潰えた。だが、評定の間にいた誰の目にも、絶望の色はなかった。軍師・源次が示した未来への道筋が、彼らの心を一つの炎として束ねていたからだ。井伊家は孤立無援にして、戦国の荒波を単身で乗り切る覚悟を決めたのである。


 「まずは『空っぽの蔵』だ!」

 源次の号令一下、中野直之が率いる武士たちが、各村へ散っていった。冬の朝靄に包まれる山里を駆け抜け、村々に踏み込むや否や、領民を一堂に集めて告げる。

 「武田が迫っておる! ここに留まれば兵糧も何もかも、すべて敵の餌食となる! 米は城へ集めよ、女童は一時的に避難せよ!」

 最初はどよめきと反発が返ってきた。「なんで今すぐ米を差し出さねばならんのだ!」

 だが、そこに直虎が自ら現れ、頭を下げた。「皆の命を守るためだ。わしを信じてくれ」

 その真摯な姿に、領民たちは心を決め、荷車に米俵を積み込む音があちこちで響き始めた。


 一方その頃、山中では新太が農兵を相手に怒鳴り散らしていた。「お前らの仕事は斬り合いじゃねえ! 夜襲だ、放火だ、石を投げて馬を驚かせろ! 敵が飯を食おうとしたら太鼓を叩け、寝ようとしたら鬨を上げろ!」

 彼の声は谷に反響し、若い農兵たちが泥にまみれて必死に駆け回る。「戦は遊びじゃねえ! だが安心しろ、死ぬな! 生きて嫌がらせして、敵に地獄を見せてやれ!」


 城内では、防御強化が急ピッチで進んでいた。源次の「一点集中」策に基づき、遠くの砦から兵を引き揚げ、資材を集め、すべてを井伊谷城へ集中させる。槌音が絶え間なく響き、堀は深く掘り直され、柵は二重三重に築かれていく。

 (これでいい……勝つためじゃない。負けないための戦いだ。力のない者は、知恵を武器にするしかない)


 数日後。井伊谷城の櫓に、源次と直虎の姿があった。眼下には、すっかり臨戦態勢となった領地の姿が広がる。「源次……そなたのおかげで、皆が一つになっておる」

 「いえ、直虎様の御威光あってこそ。民が心を合わせるのは、領主を信じているからです」

 その時――。「申し上げます!」

 駆け足で登ってきた伝令が、息を荒げて叫ぶ。「北の物見より狼煙! 武田の先鋒、井伊領に侵入! しかし……何の略奪も行わず、そのまま西へ向かっております!」


 その報せに、直後、評定の間はどよめきに包まれた。

「素通りだと!?」「我らを侮っているのか!」「いや、源次殿の『空っぽの蔵』作戦が効いたのだ!」

 家臣たちが畏怖と興奮の入り混じった目で源次を見る。

 源次は地図を睨み、冷静に思考を巡らせていた。

(よし、策は当たった。だが、なぜここまであっさりと……。やはり、今回の侵攻は徳川の出方を見るための前哨戦に過ぎなかったのかもしれない。だとしても、次に来るのは必ず本隊だ。油断はできん)

 そこへ、新たな伝令が駆け込んだ。

「武田の先鋒、犬居城方面に接近とのこと!」

 中野直之が進み出て、険しい声で問うた。「源次殿。犬居城は徳川方の城のはず。我らはどう動くべきか」


 源次は地図を指し、冷静に家臣たちに解説を始めた。

 「皆様、お忘れなきよう。犬居城主・天野氏は、徳川様の将となっております」

 (……と言っても、この天野ってオッサン、元々は武田に味方して俺たちと戦った相手なんだよな。この時代の国衆なんてそんなもんよ。強い方にコロコロ寝返るのが生き残るコツだから。徳川譜代の連中とは忠誠心のレベルが全然違う)

 「天野殿の『降伏』と、我らが結んだ『同盟』は意味が違う。彼らは徳川の家臣であり、我らは盟友。されど、盟友の城が攻められているのを、座して見ているわけには参りませぬ」

 (つまり、こういうことだ。天野は徳川の『家臣』、我らは『盟友』。立場は違うが、同じ徳川陣営には違いない。徳川本体が動かぬ今、我らまで見捨てれば『井伊は信義を知らぬ』と侮られる。厄介だが、ここで義理を果たさねば、未来はないということか)


 その言葉は、井伊家が置かれた複雑な立場を、家臣たちに改めて理解させた。

 源次の胸に、冷たくも熱い衝撃が走る。

 (来たか……! 武田の侵攻は陽動かもしれんが、戦の火蓋は確実に切られた。史実通りなら、犬居城はもたないだろう。天野氏は武田に旧恩がある。間違いなく早々に降る。問題は、その次だ。武田の本命は、天竜川の要衝――二俣城。ここからが本当の地獄の始まりだ)

 背筋に冷たい汗が伝った。

 (もし、二俣城が俺の知る歴史よりも早く落ちれば……? 武田の刃は、そのまま史実を前倒しして、この井伊谷に向かってくる可能性もある。そうなれば……!)

 準備は整った。井伊谷の運命を賭けた戦いが、いま幕を開けようとしていた。徳川に見捨てられ、孤立無援の井伊家が、歴史の奔流にどう立ち向かうのか。その全ては、軍師となった源次の双肩にかかっていた。

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