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第127節『徳川への警告』

第127節『徳川への警告』

 井伊谷の評定の間は、重苦しい香の匂いが漂っていた。源次が軍師として全権を委ねられてから、初めての大仕事――徳川への警告状の起草である。

 源次は硯の前に座り、直虎の花押を据える書状の文面を練っていた。

(……警告を送る先は浜松だ。家康は数年前、武田との戦を覚悟し、本拠を三河から、遠江の最前線へと自ら移された。その気概は本物。だが、その最前線にいるがゆえに、視野が狭くなっている恐れがある…!)

 源次は筆を走らせる。

「武田は必ず遠江を経て西進いたします。その進軍路はこの井伊谷を貫くでしょう。備えを怠れば、徳川もまたその炎に呑まれること必定にございます」

(頼むぞ、家康。あんたは俺を『面白い男』と言ったはずだ。この言葉の重みを、信じてくれ…!)

 その思いを込め、源次は書状に三つの提案を盛り込んだ。兵糧の集積、補給線の攪乱、そして戦線の縮小。それは、先の評定で彼が示した防衛戦略の骨子であった。

 直虎は書状を手に取り、深く頷いた。「これを、我が名にて送る。徳川殿が必ず応えてくださることを信じよう」

 井伊家最速の早馬が、夜を徹して浜松へ走り出した。


 その頃、浜松城。

 徳川家康は、井伊からの書状を広げ、苦々しい顔で眉間に皺を寄せていた。傍らに控える酒井忠次が進言する。

「殿、この源次という男、岡崎での一件以来、どうも腑に落ちませぬ。されど、彼の申すこと、一理あるやもしれませぬ。武田の動き、警戒するに越したことは……」

 家康は扇で机を叩き、その言葉を遮った。「忠次、そなたまであの小僧の口車に乗せられたか!」

 その声には、怒りよりも焦りが滲んでいた。家康の脳裏には、岡崎で源次に見せた自らの動揺が焼き付いている。あの男は、自分の最も触れられたくない部分に気づいているかもしれない。その男からの警告を素直に受け入れることは、三河武士団の棟梁としてのプライドが許さなかった。

(信玄も病と聞く。ここで弱気を見せれば、家臣たちの士気に関わる。井伊の若造の言う通りになったとあっては、儂の威光も地に落ちようぞ)

 若さゆえの自信と、隠された秘密を守るための意地。その二つが、彼の冷静な判断を曇らせていた。家康は筆を取ると、苛立ちをぶつけるように紙に文字を叩きつけていく。


 数日後、徳川からの返書が井伊谷に届いた。封蝋には三つ葉葵。墨痕鮮やかに家康の直筆が踊っていた。

 「拝読いたす」

 張りつめた声で源次が読み上げる。しかし、その眉は次第に険しくなった。

「――『信玄も老いたり。病に臥すと聞く。大軍を振るう力は、もはや残っておるまい』」

 家臣たちの間に、ざわめきが走る。

「――『心配は無用。万が一、遠江に火急あらば、この家康がただちに駆けつけ、虎の首を刎ねてくれようぞ』」

 読み終えた瞬間、広間は凍りついた。

「……ふざけおって!」中野直之が立ち上がり、拳で畳を叩いた。「我らを囮にせんとするか! 井伊の地が蹂躙されても、なお『老い虎』などと…!」

 家臣らの顔に怒りと絶望が混ざる。


 源次は返書を握りしめた。その紙は汗で湿り、爪が掌に食い込む。

(やっぱりか。史実どおり、家康公は信玄を侮っている。これでは徳川だけでなく、井伊も巻き添えになる…!)

 (あの脳筋殿様! 人の話を聞けってんだ! だから三方ヶ原でボロ負けするんだよ! くそっ、俺が直接浜松に行ければ…!)

 怒りと焦燥が胸を焼く。しかし、その奥底で別の声が響いた。

(徳川が動かぬなら、俺が動くしかない。俺の知識のすべてを使って、井伊谷だけは――そして直虎様だけは、絶対に守る!)


 源次は顔を上げた。その瞳は鋭く、燃えるように光っていた。

「徳川が動かぬなら、それでよい。むしろ好都合。我ら井伊家は単独で武田を迎え撃つ準備に入る!」

 その言葉に、どよめきが起こった。怒りと絶望に沈んでいた顔々に、再び炎が灯る。

「源次殿……!」「我らの軍師殿に従おう!」

 直虎がゆるりと立ち上がった。「聞いたとおりだ。井伊家は、軍師・源次の采配に従い、ただちに備えを始める!」

 評定の間に熱が走る。

 源次は深く息を吸い込む。(同盟なんて当てにならない。結局、頼れるのは俺と、この知識だけだ。だが――それでいい。俺が、直虎様を守る!)

 こうして、同盟の幻想を打ち砕かれた源次は、孤独な決意を胸に刻んだ。徳川を待たず、井伊家単独の防衛準備が、今まさに始まろうとしていた。

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