表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
126/250

第126節『Xデーの予測』

第126節『Xデーの予測』

 評定の間を支配していた沈黙は、重苦しいほどに深かった。蝋燭の炎が小さく揺れ、壁に映る影は人の心の不安を映すかのように震えている。井伊直虎の声が、その静寂を震わせた。「源次……そなたには、本当に未来が見えるのか」


 源次はしばし黙した。家臣たちの視線が突き刺さる。畏怖、好奇心、そして一縷の希望。その全てを背負って、彼は静かに口を開いた。「未来が見えるわけではございません。ただ、常人より少しだけ先の『潮の流れ』を読むことができる……そういうことにしておいてくだされ」

 含みのある言い回しに、家臣たちがざわめく。しかし源次はそれを断ち切るように言葉を重ねた。「重要なのは、未来を知ることではなく……今、我らが何をすべきか、でござる」


 その声は冷静で、だがよく通った。静まり返った空間に響き、評定の主導権を確実に握っていく。

 (史実では井伊家は生き残る。だが被害は甚大だった。俺の知識を使えば、その被害を最小限にできるはずだ)

 源次は卓上の地図に歩み寄り、赤墨を手に取る。蝋燭の炎が照らす中、彼の指が甲斐から遠江へと伸び、線を描き始めた。

 「まず一つ。敵は兵糧を現地で調達するはず。ならば……我らは『空っぽの蔵』を作り出すのです」

 源次の指が村々を示す。「信玄公が進むであろう道筋の村から、兵糧を全て井伊谷城に運び込みましょう。蔵を空にしておけば、敵は進むほどに飢え、疲弊する」

 「村を捨てる……だと……?」

 「捨てるのではない。生かすのです」源次はきっぱりと言い切った。「村を焼き払う必要はない。ただ、食う物を無くす。それで敵は必ず足を止めるでしょう」


 地図の上に新たな赤線が描かれる。「次に『蜂の一刺し』。大軍と正面から戦ってはなりませぬ。新太殿のような勇猛の将に、小部隊を率いていただく。狙うは敵の補給部隊。山道に潜み、一撃を加えては退く。一度や二度ではなく、繰り返し。必ずや大軍は痩せ細ります」

 「最後に『一点集中』。すべての城を守ることは不可能。国境の砦はいくつか捨てましょう。その代わり、井伊谷城、そして徳川との連携の要となる拠点に兵を集めます。生き残るためには、力を一点に凝らすべきです」

 家臣たちは息を呑んだ。城を「捨てる」という発想は、彼らにとって常識を覆すものだった。しかし同時に、その合理性が胸を打った。

 汗の匂いに満ちていた評定の間が、次第に新たな熱気に包まれていく。絶望が希望へと塗り替わっていくその空気を、源次は確かに肌で感じていた。

 (この計画が成功すれば、直虎様を危険な前線に出さずに済む。井伊谷が焼かれることもない。俺は歴史を変えるんだ。推しが安心して暮らせる未来のために!)


 地図の上に赤線が走り、戦略の全貌が浮かび上がったとき、直虎が立ち上がった。震える手で采配を握りしめ、その瞳には強い光が宿っていた。

 「皆、聞け! これより、武田との戦における全権を、軍師・源次に委ねる! 異論は認めぬ!」

 その言葉に、評定の間は一瞬凍りついた。どよめきが走る。

 「お待ちくだされ、殿!」

 声を張り上げたのは、やはり中野直之だった。

 「軍師として策を立てさせるは百歩譲って認めましょう。されど、軍の全権をこの男に預けるなど、あってはならぬこと! 兵を率いるは、我ら譜代の武士の務めにございます!」

 その言葉に、他の古参家臣たちも頷く。

 源次は静かにその反発を受け止めていた。(来ると思っていた。だが、ここで彼らを力で押さえつければ、必ず歪みが生まれる……)


 直虎は、その直之を真っ直ぐに見据えた。

 「ならば直之、そなたに問う。そなたに、この策を上回る勝ち筋を示すことができるか」

 その問いに、直之は言葉を失った。正面からの決戦では勝てないことは、彼自身が一番よく分かっていたからだ。

 直虎は、ゆっくりと続けた。その声は、領主としての厳しさと、彼への信頼が入り混じっていた。

 「わらわは、そなたの武勇と忠義を誰よりも信じておる。だからこそ、そなたに総大将を命じる。されど、その槍を振るうべき場所と時を指し示す『目』が、今の井伊には必要じゃ。源次は、その『目』となる者。そなたはその『槍』となり、二人で一つとなって井伊を守ることはできぬか」


 直之は唇を噛みしめ、拳を固く握り込んだ。彼の脳裏に、佐久間川での奇策、そして先の敗戦で見せた神懸かりのような撤退戦の采配が蘇る。忌々しい男だ。だが、あの手腕は本物……。そして今、主君は「お前こそが井伊の槍だ」と、その誇りを立ててくれている。

 彼はやがて、ゆっくりと膝をつき、低く呻くように応えた。

 「……御意。この中野直之、井伊の槍となり、軍師殿の策に従いましょう」


 その一言で、評定の間の空気は決した。最も強硬な反対者であった直之が頭を下げたのだ。他の家臣たちは一人、また一人とそれに倣い、頭を垂れた。異論を唱える者は、もはやいない。

 源次は呆然とした。(全権……!? 俺が、この井伊家の軍を……? 直虎様、あんたは俺にどこまで賭けるんですか……!)

 だが、その肩には確かに、井伊谷の命運すべてが託されたのだった。蝋燭の炎が大きく揺らめき、壁に映る源次の影が、巨大な軍勢を背負う将のように伸び広がった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ