第125節『甲斐の影』
第125節『甲斐の影』
評定の間に駆け込んできた早馬の報せは、井伊谷に束の間の安寧をもたらしていた空気を一瞬にして打ち砕いた。
「武田軍……大軍を率いて西へ向かっていると!」
その言葉が響いた瞬間、蝋燭の炎が大きく揺れ、壁に映る家臣たちの影も不気味に震えた。途端に、畳を叩くように声が飛び交う。
「終わりだ! 我ら井伊谷の小勢で抗えるものか!」「徳川殿に急ぎ援軍を乞うべきだ!」「いや、それでは間に合わぬ! 武田に降るしか生きる道はない!」
怒号と悲鳴が交錯する。恐怖に駆られた者の吐息が熱気となり、評定の間にはじっとりとした汗の匂いが充満した。
「うろたえるな!」中野直之が立ち上がり、畳を踏み鳴らした。「籠城だ! 我らが城で持ちこたえれば、必ず徳川様が援軍に来てくださる!」
しかし、その叫びも恐慌に駆られた家臣たちの耳には届かない。井伊直虎は、両の拳を膝の上で固く握り締めていた。
――ここだ。
源次は心の奥底で呟いた。
(落ち着け……俺の知る歴史では、信玄が本格的な西上作戦を開始するのは、元亀三年のはずだ。だとすれば、これはまだ前哨戦か、あるいは徳川を牽制するための陽動に過ぎない。本格侵攻ではないはずだ……)
だが、同時に冷たい汗が背筋を伝った。
(しかし、新太という史実にいない存在がいるように、この世界は俺の知る歴史と完全に同じとは限らない。もし、この侵攻が『本物』だとしたら……? ズレは、すでに起きているのかもしれない)
興奮と戦慄が同時に胸を焼き付ける。
(どちらにせよ、俺がここにいる以上、直虎様を絶対に死なせはしない。そのためなら、未来を知る異常者と恐れられようとも構わない!)
源次は静かに立ち上がった。「皆々様……お静まりくだされ」
不思議なことに、その声は喧噪を裂く刃のごとく、評定の間を貫いた。怒声が止まり、家臣たちは一斉に源次へと目を向ける。そこには動揺も恐怖もなく、ただ落ち着き払った眼差しがあった。
源次は卓上の地図に歩み寄り、指先で甲斐からの道筋をなぞった。
「武田信玄公の狙いが上洛にあることは間違いございません。されど、天下を掴むには背後を固めねばならぬ。織田・徳川が健在では、京に兵を進めても命取りになるゆえ……」
指は東海道を避け、大きく南へと滑る。
「進むべきは秋葉街道。遠江を分断し、徳川を孤立させる道筋です」
家臣の一人が息を呑んだ。「……まさか……!」
源次の指は、次に犬居城へと止まる。「まず狙われるのは犬居城。そして最終目標は、天竜川を押さえる二俣城。ここを落とされれば、遠江は真っ二つに裂かれます」
沈黙。蝋燭がぱち、と小さく弾ける音がやけに響いた。
(この動きは、史実の西上作戦の序盤と酷似している。たとえこれが陽動であったとしても、敵の狙いは変わらないはずだ)
「時期は……稲穂が完全に頭を垂れる十月の中旬。これを逃すまいと、必ずや武田軍は動くでしょう」
その断言は、あまりに具体的であった。進軍路、標的、時期。まるで実際に見てきたかのように。家臣たちは声を失い、中野直之ですら「なぜ……なぜ、そこまで分かるのだ……?」と押し殺したように呟いた。
源次は答えなかった。ただ、未来の流れを見据えるかのように地図を見つめ続ける。評定の間には、水を打ったような静寂が訪れた。
その静けさを破ったのは、領主の震える声だった。「源次……そなたには、本当に……未来の潮の流れが、見えるのか」
直虎の目には、畏敬と恐怖と、そしてかすかな希望が混じり合っていた。
源次はその問いに答えず、ただ静かに彼女を見返す。その瞳の奥には、人ならざる深淵の光が宿っていた。
直虎は息を呑み、拳をさらに強く握りしめた。家臣たちは誰ひとりとして声を発せず、ただその沈黙の中で、源次という存在が常人の枠を超えたものへと変わりつつあることを悟った。
――井伊谷の未来は、この「予言者」に委ねられてしまったのだ。