第124節『城下の噂』
第124節『城下の噂』
秋風が吹き抜ける井伊谷は、黄金色の光に包まれていた。稲穂は重たげに垂れ、農人たちの掛け声と笑い声が、山里に響いている。
源次が立案し、直虎が断行した財政改革――すなわち、正確な検地による税の公平化と、木綿などの特産品を奨励する商業振興策は、早くも目に見える形で実を結び始めていた。収穫を終えた田には、積み上げられた米俵が並び、例年よりも明らかに数が多い。検地と減税により、年貢を納めてもなお、領民の家には余り米が残る。それが笑顔と安心を生み、村のあちこちで小さな祝宴が開かれていた。
「源次様のおかげだ」「いやいや、直虎様の御心があればこそよ」
そんな声を耳にしながら、源次は村の一角に立ち、収穫を眺めていた。
(よし、改革は順調だ。税収も安定してきた。これで次の戦にも備えられる……)
城下の市もまた、かつてとは様変わりしていた。並ぶ品の種類が増え、木綿を扱う商家の蔵は潤いを見せる。市のざわめきは、希望を宿した明るい響きを持っていた。
(みんなが笑ってる……! 俺の知識が、ちゃんと人の役に立ってるんだ……!)
心の底からの喜びが胸に広がる。
城下を歩く源次に、次々と声がかけられる。「軍師様!」「どうか、これを受け取ってください!」
老農が籠いっぱいの大根を差し出し、子どもが栗を抱えて駆け寄る。
「軍師様のおかげで、うちの田も豊作でございます!」「直虎様には、竜神様が遣わした軍師様がついているんだと……皆そう申しております」
井戸端で洗濯をしていた女たちの会話が耳に入った。
(竜神様って……俺、ただの漁師上がりなんですが……! さすがに話が大きくなりすぎだろ!)
領民の期待が、畏敬に変わり、やがて神格化へと傾き始めているのを感じる。
(だが、この噂は危険だ。俺一人が持ち上げられすぎている。功績は殿の徳によるもの……このままでは、家中の和を乱しかねん)
冷や汗が背筋を伝った。
(直虎様が、最近よく笑うようになった。それだけで、俺がここにいる意味がある。この笑顔を、俺が必ず守り抜く……!)
推しの笑顔こそが、源次の原動力であった。
その日の夕刻。評定の間では、収穫の報告が終わり、安堵の空気が漂っていた。
「今年は豊作、兵糧の備えも十分にございます」
家臣が報告すると、直虎は嬉しげに頷いた。「これも、源次の尽力あってのことじゃ」
中野直之は腕を組み、渋い表情を浮かべる。「確かに源次殿の手腕は見事。しかし……民が“軍師様”などと呼び、竜神だの神の遣いだのと言い出すのは、行き過ぎではないか」
源次は深く息を吸い、直虎に向かって進み出た。「直虎様、この噂は危険です。功績はすべて殿の徳によるもの。私一人が突出すれば、家中の和を損なう恐れがございます」
直虎は微笑んだ。「そなたの功は、わらわが一番よく分かっておる。民がそなたを慕うのも当然じゃ」
その言葉に、源次の胸は温かくなった。しかし同時に、不安も拭えない。
その時、襖が乱暴に開かれ、血相を変えた間者が飛び込んできた。
「申し上げます! 甲斐にて、武田が出陣の準備を整えたとの報せ! 目標は……遠江の制圧とのことにございます!」
評定の間の空気が一瞬で凍り付いた。
「上洛」を目指すのか。京にのぼり、天下に号令する――それは、戦国武将にとって最大の野望。この頃、中央では織田信長が将軍・足利義昭を擁して天下に覇を唱えていたが、信長と将軍の関係は悪化の一途をたどり、諸大名による信長包囲網が形成されつつあった。その包囲網の最大の切り札こそが、甲斐の虎・武田信玄である。
もし信玄が本気で上洛を目指すならば、その進軍ルートは二つ。東海道を下るか、東山道を進むか。いずれの道を選んだとしても、その経路上に位置する遠江・三河は、巨大な軍勢に蹂躙される運命にあった。
井伊谷が築き上げた束の間の平穏は、天下を揺るがす巨大な嵐の前触れによって、脆くも砕け散ろうとしていた。