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第123節『新太の畑仕事』

第123節『新太の畑仕事』

 槍を置いてからの日々は、新太にとって重く、そして静かであった。

 井伊谷の一角に与えられた粗末な屋敷。そこで目覚めても、かつてのように鬨の声も、馬の嘶きも聞こえてはこない。耳に入るのは、遠くから響く鶏の鳴き声や、鍬を打つ乾いた音ばかりであった。

 壁に立てかけられた槍を磨くことだけが、彼の慰めだった。鋼の冷たさを掌に感じている時だけ、自分がまだ武士であると確かめられる。だが、その槍を振るう戦はもう訪れぬかもしれない。源次や直虎が改革に奔走し、領民と共に未来を描いている姿を遠目に見るたび、自分が取り残されたように感じた。

 (俺は……ここでは無用の長物か)


 この時代、降将の扱いは過酷なものだった。特に新太のような猛将は、いつ牙を剥くか分からない危険人物と見なされ、軟禁されるか、あるいは利用価値がなくなれば暗殺されることすら珍しくない。彼がこうして井伊谷で生かされているのは、源次との個人的な繋がりと、直虎の温情によるものに過ぎなかった。その事実が、新太の孤独と焦燥感を一層深くしていた。


 その日も、手持ち無沙汰に槍を磨いていると、戸口に源次が現れた。「新太。お前に頼みたいことがある」


 源次は、城下から少し離れた田畑の脇に立ち、遠巻きにその光景を眺めていた。


 泥にまみれ、農兵たちに鍬の使い方を教えている巨躯の男――新太。その姿は、かつて戦場で鬼神のごとく槍を振るっていた猛将の面影はない。日に焼けた顔には戸惑いと、しかし確かな充実感が浮かんでいた。


 (悪くない……)

 源次は心中で静かに頷いた。新太を農兵の指導役にしたのは、単なる気まぐれや温情ではなかった。それは、源次が描く井伊谷の未来図における、極めて重要な一手だったのだ。


 (新太は、俺の最強の刃だ。だが、鞘に納まったままの刃は錆びる。戦のない今、彼には別の形で『井伊の者』としての役割と誇りを持ってもらう必要がある。民と共に汗を流し、この土地を守る者として信頼を得てこそ、いざという時に彼が率いる兵は真の力を発揮する)


 それは軍師としての冷徹な計算。だが同時に、源次の胸には、その計算とは別の感情が静かに芽生えていた。


 (……面白い男だ。戦場で初めて会った時は、ただの殺戮機械かと思ったが……。土に触れ、民の笑い声に囲まれることで、あんな顔もするのか。俺が創りたい世は、こういう景色の中でこそ、人もまた変われるということなのかもしれないな)


 それは、天下国家を論じる戦略家の顔ではなく、歴史の「変数」が思いがけない変化を見せるのを観察する研究者のような、純粋な好奇心に満ちた眼差しだった。彼は、新太に気づかれぬよう静かにその場を離れた。胸の内に、軍師としての打算と、一人の人間への興味を抱きながら。


 一方、新太は畑の脇に立っていた。そこに集められたのは、半農半兵の若者たちだった。彼らは、新太を遠巻きに見ていた。――武田の将として名を馳せた鬼のごとき男。その素性を知る者は少ないが、屈強な体躯と鋭い眼光に、誰もが畏れを覚える。

 (……視線が突き刺さるな。俺を井伊の人間と認めてはおらぬか)

 「井伊谷の兵は、戦に慣れていない。お前の役目は彼らの指導役だ。体を鍛えさせ、いざという時に備えさせる。だが――ただ槍を振らせるだけではない。農の技も学ばせよ」

 源次の言葉が蘇る。

 「……農、だと?」新太は眉をひそめた。「俺は槍働きしか知らぬ。鍬を振るうなど、武士のやることではない」

 「国を強くするのは戦だけではない。土地を強くすることもまた、戦だ。お前の腕力と胆力なら、農兵たちを導ける」


 新太は渋々ながら、鍬を手にした。重みは槍とは違う。しかし両の腕に力を込めて振り下ろすと、土が割れて黒々とした塊が顔を出す。その瞬間、若者たちの間にざわめきが走った。

 「あの人が……鍬を?」「すげえ……土が一度で割れたぞ」

 新太は黙々と鍬を振り続けた。

 (戦場では人を斬るたびに虚しさが残った。だが、土を打つたびに、何かが生まれるような気がする)

 昼時になると、農兵の一人が恐る恐る握り飯を差し出してきた。差し出されたそれを口にすると、塩の香りと米の甘みが口いっぱいに広がる。汗を流して食べるその味は、戦場で口にした乾き飯とは比べものにならぬほど美味かった。若者たちの視線も、次第に変わっていった。恐れから、驚きへ。そして、共に鍬を振るう仲間としての眼差しへ。


 ある日のこと。大雨の後、用水路の土手が決壊しかけているとの報せが届いた。その時、誰よりも早く駆け出したのは新太だった。丸太を肩に担ぎ、濁流の中へと踏み込む。

 「うおおおおッ!」

 轟音の中で、彼の咆哮が響いた。鬼神のごとき姿に、農民たちは声を失った。やがて我に返った若者たちが、次々と土嚢を運び込み、必死に補強を始める。

 濁流が収まり、土手が持ち堪えた時。人々の目には涙がにじんでいた。「新太様……!」「あんたは……守り神みたいだ!」

 井伊の者たちにとって、新太は未だ「異邦の武将」であった。だがその日を境に、彼は力で畏れられる存在から、「共に土地を守る者」として受け入れられていったのである。

 槍を置いた彼が見つけたのは、戦場では決して得られなかった、民と共に生きるという新たな役割だった。その心の平穏が、やがて来るべき大きな戦の中で、彼の力となることをまだ誰も知らなかった。

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