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第122節『直虎の政』

第122節『直虎の政』

 秋風が田の畦を渡り、稲穂を揺らす。黄金色の波の向こうでは、検地役人たちが竿を手に測量を始めていた。だが、その様子を睨みつける領民たちの視線は険しい。村長らは腕を組み、役人を取り囲むように立ち塞がる。

 「そんなもの、聞いたこともない。田の広さを竿で測るだと? 井伊谷は昔から指出制じゃ。勝手な真似は許さぬぞ」


 この時代の検地は、単なる測量ではなかった。それは領主が民の富を直接把握し、支配を強化する行為であり、しばしば一揆の引き金となるほど危険な政策だった。特に井伊家が採用してきた「指出制さしだしせい」は、土地の広さや収穫量を農民側からの自己申告に委ねる、比較的緩やかな制度であった。源次が提案した、役人が直接田畑を測る「検地竿けんちざお」を用いた方法は、より正確な税収を見込める一方で、領民にとってはこれまで黙認されてきた「隠し田」が暴かれ、生活が脅かされる恐怖を意味したのだ。

 (やはり抵抗は大きいな。だが、これは想定内だ)

 遠巻きにその様子を見ていた源次は、心中で冷静に呟いた。だが隣では中野直之が憤然と声を上げる。

 「だから申したのだ! 民が従わぬなら、力で押さえつけるしかあるまい!」

 「お待ちください、中野殿。ここで武を振るえば、全てが水泡に帰します。力で従わせても、心までは従わぬ」


 翌日。最も抵抗が激しいと報せのあった村に、直虎自らが姿を現した。

 戦装束ではなく、淡い色の小袖に草履。鎧も刀も持たず、護衛も最小限。村の入り口で待ち構えていた村長たちが、思わず息を呑む。

 「直虎様自ら……?」

 直虎は村人たちの前に歩み出ると、泥に足を取られながらも真っ直ぐに進み、そして深々と頭を下げた。「どうか、わらわの話を聞いてはくれぬか」

 ざわめきが広がる。領主が、民に頭を下げる――その姿は誰の目にも衝撃であった。

 (直虎様……! 自ら泥を踏み、頭を下げるとは……)

 源次の胸が熱くなる。

 「このままでは、井伊谷はいずれ戦で滅ぶ。民が疲弊し、田が荒れれば、どれほどの武力も意味をなさぬ。だからこそ、わらわは皆に力を借りたい。腹いっぱい飯を食い、子らが笑って暮らせる国にするために――どうしても必要なのじゃ」

 その声は、秋風を切って村に響いた。だが、一人の村長が声を荒げる。

 「隠し田を暴かれたら、我らの暮らしはどうなる! 飢え死にせよと申すか!」

 直虎は一歩進み出て、迷いなく言い放った。「税率は必ず下げる。約束しよう。もしもわらわが嘘をついたなら――この首を差し出す」

 空気が凍りついた。誰もがその言葉に耳を疑った。

 (マジか……! 自分の首まで賭けるとか……! 直虎様、マジ神対応……! 俺だったら絶対キレてるわ……!)


 直虎は泥にまみれた畦道を歩き、一人ひとりの目を見て語りかけた。「わらわは民を苦しめるために検地をするのではない。皆の負担を軽くするためだ。どうか、信じてはもらえぬか」

 冷たい風の中、その言葉は不思議と温かさを帯びていた。やがて一人の老人が、ぽつりと呟く。「直虎様がそこまで言われるなら……」

 その声をきっかけに、村人たちの表情に変化が生まれた。

 (尊い……尊すぎる……! 泥にまみれて民に頭を下げる推し……! これだよ、これが見たかったんだ! 俺の推しは、やっぱり最高だ! 一生ついていきます!)

 源次の心は熱に揺さぶられていた。


 日が傾く頃、検地の竿が再び田に差し込まれた。今度は、村人たちがその作業を手伝っている。軋轢は完全には消えていない。だが、確かな一歩が踏み出された。

 遠くからその光景を見守る源次は、静かに拳を握った。

 (知識や策では人の心は動かせぬ。人の心を変えるのは、直虎様の真っ直ぐな想いだ。俺は――この人を支えるためなら、どんな汚れ仕事でもやってやる!)

 徳川との同盟は、井伊家にとって外からの脅威を一時的に遠ざける盾となった。そして今、直虎と源次による内政改革は、その盾の内側で国力を蓄え、ただ守られるだけの存在から脱却するための、未来への布石であった。

 井伊谷の本当の戦いは、今まさに始まろうとしていた。

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