第121節『井伊家の財政改革』
第121節『井伊家の財政改革』
源次が岡崎より帰還し、井伊家と徳川家の同盟がなってから、早くも二年以上の歳月が流れていた。
その間、遠江の情勢は刻一刻と変化していた。西の徳川家康は、武田信玄との来るべき決戦を睨み、本拠地を三河の岡崎から遠江の最前線である浜松城へと移すという大胆な手に出た。その覇気は遠江の国衆たちの心を揺さぶる。かつて武田方につき井伊家と刃を交えた犬居城主・天野氏までもが、今川家の衰退と徳川家の台頭を前に日和見を決め込み、ついに徳川の軍門に降った。これにより、遠江の勢力図は複雑に塗り変わりつつあった。
一方で、徳川の影武者の謎は、源次の胸の内に深く沈められていた。岡崎城での軟禁が解かれ井伊谷へ戻って以来、徳川との公な接触は使者を通じてのみ。秘密の核心に触れる機会は失われていたのだ。彼は焦りを押し殺し、今は井伊の国力を高めることこそが、いずれ来るべき交渉の場で最強の武器になると信じ、内政に全力を注いでいた。
徳川という巨大な盾を得た井伊谷にも、戦火に追われることのない、束の間の平穏が訪れていた。源次は、この貴重な時間を無駄にすることなく、かねてより計画していた内政改革をさらに推し進めるのであった。
岡崎で徳川の強大な国力を目の当たりにしてきた源次にとって、この平穏は嵐の前の凪に過ぎなかった。評定の間の隅、古びた財政帳簿を広げると、記された数字が無情にも現実を突き付けてくる。
(ひどいな……戦続きで財政は火の車だ。兵糧の支出がかさんでいる上に、年貢の取り立ても不安定。これでは、いざという時に兵を動かせない)
表面は平和でも、国の根は弱り果てている。源次は知っていた。このままでは、同盟の庇護に甘えた小国として、やがて吸収されるだけだろう。
(軍事的安定は、国力を立て直す絶好の好機だ。ここで改革に着手しなければ、井伊谷に未来はない)
数日後、評定の間には重苦しい香の匂いが漂っていた。井伊家中の重臣たちが並ぶ中、源次は机に二枚の地図を広げた。ひとつはこれまで用いてきた粗雑な井伊谷の地図。もうひとつは、源次が独自に作成した、田畑の形状や川筋まで克明に描かれた新地図であった。その精密さに、家臣たちの間からどよめきが漏れる。
源次は静かに新地図の一点を示した。「殿、この古き検地帳と新たに調べた田畑の面積を比べると、五分の一近くの田が記載されておりませぬ。いわゆる隠し田でございます」
ざわめきが広がる。中野直之が鋭く眉を吊り上げた。「源次! そのようなことをすれば、領民どもは怒り狂うぞ。隠し田を暴けば、生活を脅かすことになるではないか!」
源次は冷静に返す。「ご懸念はごもっとも。しかし、これまでの指出制では自己申告に任せており、正確な石高は把握できませぬ。今のままでは、いくら税率を上げても取りこぼしが多すぎる。ならば、正しく測り直すべきかと」
「ふん……!」直之の声が響く。「武士の本分は武にあり! 民の畑を一つひとつ測り回るなど、まるで商人の真似事よ。第一、民の怒りを買えば、暴動を招くぞ!」
だが源次は一歩も退かない。「中野殿。隠し田から正しく税を得れば、かえって年貢率は下げられます。例えば、これまでの五公五民を四公六民に改める。民の負担は軽くなり、しかも総税収は増えるのです」
「……馬鹿な。税率を下げて収入が増えるなど、理に合わぬ!」
直之が吠える。だが源次は迷いなく言葉を重ねる。「実例を挙げましょう。隠し田が五分の一あるとする。今はそこから一文も入らぬ。だが精密に測り出せば、その分だけ税が加わる。税率を下げても、母数が増えれば総収入は増す。数字を見れば明らかです」
彼は帳面を開き、墨痕鮮やかな計算を示した。
(戦ばっかりじゃ国が疲弊するだけだっての! まずは民の暮らしを安定させないと! 当たり前のことだろ!)
そして、その奥底にある根源的な思いが疼く。
(この改革が成功すれば、井伊谷は豊かになる。そうすれば、直虎様の心労も少しは和らぐはずだ。彼女に、心から笑ってほしい……!)
源次は深く息を整えた。「加えて――米ばかりに頼るのは危ううございます。井伊谷は木綿の産地。この木綿を奨励し、商人の売買に課税すれば、新たな税源となりましょう」
「武士が銭勘定にうつつを抜かすなど聞いたことがない!」と直之が再び吠える。
源次はきっぱりと断じた。「武の威は、国の富を基に支えられるものです。兵糧が尽きれば、どれほど勇ましい軍も立ち行きませぬ」
家臣たちの囁きが、波のように広がった。誰もが心揺さぶられながらも、伝統を裏切るかのような提案に、踏み切れずにいた。
その時だった。静かな声が、評定の間を満たした。
「源次の申すこと、理に適っておる」
直虎が立ち上がっていた。
「戦で民を疲弊させるだけが能ではない。民を富ませてこそ、国は強くなる。この改革、わらわが責を負うて断行する!」
彼女の握りしめた拳は、小さな体に宿る決意の象徴だった。
源次の胸に熱いものが込み上げる。(直虎様……! あなたなら、そう言ってくださると信じていました!)
こうして、井伊谷は前代未聞の改革へと歩を進める。それは徳川の庇護下でただ生き長らえるのではなく、自らの力で国を富ませ、対等なパートナーとして認められるための、源次が描いた未来への第一歩であった。