第120節『凱旋』
第120節『凱旋』
山の稜線が夕陽に染まり、秋風が谷を吹き抜ける。源次の一行はついに井伊谷へ戻った。懐かしき土の匂いと、炊ぎの煙の香りが鼻をくすぐり、胸に熱いものが込み上げる。
(ただいま……俺、やり遂げて戻ったぞ……!)
城下の道は領民たちで埋め尽くされていた。農具を放り出して駆けつけた者、童を抱きしめて手を振る母、年老いた者まで誰もが口々に叫ぶ。
「源次様! ご無事で!」「徳川様との同盟、成就なされたと聞きましたぞ!」
歓声は山々に反響し、子らは竹を振り、太鼓の音がどんどんと鳴り響く。源次は馬上で胸を張りながらも、表情は使者らしく引き締めた。
(うおお! ただいま! めっちゃ褒められたいけど、ここは我慢……!)
城門前には家臣団が整列していた。中野直之も重吉も、その中心に立っている。直之の顔は険しさを脱ぎ、重臣としての厳粛さを帯びていた。
源次は馬を下り、膝を折って深々と頭を下げる。「ただいま戻りました」
直之は頷き、短く言った。「無事で何よりだ。大儀であった」
その言葉に、源次の胸は熱く震えた。かつて敵対し合った直之が、今は迎える側に立っているのだ。
評定の間には、張り詰めた静寂が漂っていた。上座には井伊直虎が座す。白き小袖に身を包み、凛然とした姿が蝋燭の光に照らされる。
源次は正面へ進み出て、朗々と口上を述べた。
「岡崎にて、徳川殿より直々に盟約の証文を賜りました。これにより、井伊と徳川は互いに盟約を交わし、相互に助け合うこと、確かに成就仕りました」
証文が広げられると、墨痕鮮やかな署名と花押が目に入り、家臣たちの間にどよめきが広がった。
この時代、大名間の「同盟」は、実質的には力の強い側が弱い側を保護下に置く、主従関係の始まりを意味することが多かった。しかし、この証文には井伊家を単なる配下ではなく、特別なパートナーとして遇するという、徳川家康の異例の配慮が示されていた。それは源次が提示した「水の道」という戦略的価値を、家康が高く評価した証に他ならなかった。
「……成ったのか、まことに……」「夢物語と思うておったが……」
ざわめきの中で、直之が進み出た。
「源次殿、よくぞやり遂げられた。この大事業、そなたの働きなくしては叶わぬものであった。これよりは井伊の柱石たる覚悟で、務めを果たされよ」
直之は満座の前で、誇らしげに言葉を贈った。その言葉は井伊家の重臣としての認可であり、全員の評価を決定づけるものだった。
(直之殿……あんたがそう言ってくれるなら、誰も逆らえない。これで俺の立場は盤石だ)
だが心の奥底では、別の思いが静かに燃えていた。
(同盟は始まりに過ぎない。徳川の影武者という秘密――その爆弾を抱えたまま、どう直虎様を守り抜くか。それが俺に課された本当の戦だ)
その夜。評定が終わり、城に静けさが戻った頃、源次は直虎の私室へと呼ばれた。
「よう、生きて戻った。……この時を待っておったぞ」
直虎の柔らかな声に、旅の疲れがふっと和らぎ、心が温かく包まれた。
源次は同盟成立の経緯を語った。しかし岡崎で掴んだ影武者の核心には触れない。言葉を慎重に選び、声を低めて言う。
「徳川家には、表に見えぬ大きな『秘密』がございます。それは我らにとって薬とも毒ともなり得るもの。直虎様にこそ、まずお知らせせねばと思い、胸に抱えて戻りました」
直虎の瞳が細く揺れた。「そなた……岡崎で何を見たのだ?」
問いかけに、源次はただ静かに微笑んだ。その笑みには、語らぬ重さと決意が滲んでいる。
言葉を交わさぬ沈黙の中、二人の間に深い信頼と緊張が流れた。
(直虎様を守る。この秘密の重圧を抱えながらでも……必ず)
障子を揺らす夜風が、源次の決意を試すかのように吹き込んでいた。