第12節『古参兵・重吉』
第12節『古参兵・重吉』
井伊谷の山里にも、早春の風が吹き渡る頃となった。
源次が足軽として井伊家の兵舎に身を置いてから、すでに数週間が過ぎている。
粗末な藁床に寝起きし、麦飯に味噌を落としただけの汁をすすり、陽が昇ればひたすらに槍を振る。
漁師として鍛えた体は、この過酷な日々にもすぐさま順応した。
いや、順応どころではない。
槍の構え、足さばき、間合いの取り方。
源次は異様なほどの速さで習得していった。
筋肉を効率よく使う感覚、体の軸を保つ意識、息を長く保つ術。
どれも漁の経験と、かつての世界で培った知識が溶け合ったものだ。
訓練場に立つ彼の姿は、すでに「新兵の一人」ではなくなりつつあった。
槍を突けば土を穿ち、薙げば風を鳴らす。
その動きは、素人の必死さを超え、理にかなった鋭さを帯びていた。
若い足軽たちは、気づき始めている。
「……あいつ、なんであんなに上手ぇんだ」
「まだ入ってひと月も経たねぇのに」
羨望というより、むしろ薄気味悪さを含んだ眼差しで。
輪に混じろうとしない源次の態度も、それに拍車をかけていた。
一方、槍の手ほどきをしている老兵は、口を結んで頷いた。
「筋がいい。身体の理を知っておる」
そう評する声が、訓練場の隅で聞こえたとき、源次は耳を傾けるふりすらせず、黙々と槍を振り続けた。
だが、彼は気づいていた。
いつも、視線を感じるのだ。
槍を振り、息を整える合間に。
兵舎の片隅、武具を手入れする姿が必ず目に入る。
片足を引きずる、年のいった古参兵。
ただ無言で、鋭くも静かな眼差しをこちらに向けている。
それが――重吉との最初の認識だった。
その日の訓練も終わり、若い足軽たちが汗まみれの槍を無造作に置き、どやし合いながら兵舎へと引き上げていく。
源次だけが残った。
陽が傾き、赤みを帯びた光が訓練場を染める。
彼は貸与された槍を持ち出し、静かに腰を下ろした。
まず、穂先の汚れを布で拭い取る。
その後、小刀で柄のささくれを削ぎ、手触りを確かめる。
砥石に水を含ませ、穂先を一定の角度で研ぎ澄ますと、鈍く光っていた鉄がやがて鋭い輝きを帯びた。
仕上げに油を染ませた布で、柄全体を拭き上げる。
松脂を混ぜた油は、木をしめ、湿気から守る。
「(こいつが俺の命を守る唯一の相棒だ……)」
現代にいたときも、釣り具や網を大切に扱った。
だが今、この槍はそれ以上の存在だ。
生きるも死ぬも、この一本次第。
その想いを込め、源次は念入りに磨き続けた。
その背に、声がかかった。
「精が出るな、新入り」
低く、だが芯の通った声。
振り返ると、夕陽に照らされた影が立っていた。
片足を引きずりながらも、背筋はまっすぐに伸びている。
重吉。
彼の眼は、槍の穂先よりなお鋭く、しかし深い静けさを湛えていた。
重吉は源次の手元に目を落とし、ぽつりと呟く。
「槍は正直だ。使い手の心が、そのまま映る」
源次は手を止めずに答えた。
「……そうかもしれませんな」
「お前さん、他の者とは違うな」
重吉の声は探るようであり、試すようでもあった。
「戦を知っている目をしとる」
源次は眉を動かさず、淡々と返す。
「いいや。ただの漁師だ。戦で仲間を亡くしたことはあるが、それだけだ」
嘘ではない。
だが、真実でもない。
重吉はそれ以上を追及せず、ただ源次の目をまっすぐに見つめた。
長い沈黙が、二人の間を満たす。
焚き火の音も、人声もない。
ただ夕暮れの風が吹き抜ける音だけがあった。
やがて重吉が口を開いた。
「構えてみろ」
源次は立ち上がり、槍を握った。
肩幅に足を開き、低く腰を落とす。
重吉の目が細まる。
「ふむ……やはり腕で振っておるな」
「腕で?」
「そうよ。お前の槍は力強いが、半日も戦えば腕が先に死ぬ。槍働きは足でするものだ。大地を踏みしめ、腰で力を伝えよ。腕はただの通り道にすぎん」
源次は息を呑んだ。
現代で学んだ「体幹」や「重心移動」という概念が、重吉の言葉と重なった。
(……この男、ただの古参兵じゃない。生きた戦場の理を知っている)
重吉はさらに言葉を重ねる。
「戦場で真っ先に死ぬのは、どんな奴か分かるか?」
源次は答えず、黙って耳を傾けた。
「臆病者でも、命知らずでもない。――目が死んでおる奴だ」
重吉の声は、冷たい鉄のように響いた。
「周りが見えず、ただ槍を振り回すだけの者は、必ずどこからか飛んでくる矢か、横からの槍で死ぬ。戦とはそういうものだ」
源次は息を飲む。
目が死ぬ――その言葉は、深く心に突き刺さった。
重吉は、静かに言い添えた。
「お前の目は、まだ死んでおらん。その目を曇らせるな」
そう言い残し、片足を引きずりながら背を向けた。
夕暮れの影に、その姿は溶けていった。
源次は槍を握りしめ、深く頭を垂れた。
胸の奥で、何かが芽生えていた。
ただの足軽として終わらぬための道――。
静かなる師との出会いが、その第一歩であることを、彼は確かに感じていた。