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第119節『一つの仮説』

第119節『一つの仮説』

 岡崎城を離れて数日、街道を進む一行の蹄音が乾いた大地に規則正しく刻まれていた。

 源次は馬上で揺られながら、岡崎で得た情報の断片を、頭の中に一枚の盤を広げるように並べていった。

 ――火傷の痕。幼少の記憶を語らぬ主君。頑なに口を閉ざす家臣団。そして、個人名ではない可能性のある「服部半蔵」。

 それぞれは孤立した点に過ぎない。だが、その背後には共通の影が横たわっている気がしてならなかった。

 (……桶狭間だ)

 ふと、源次の心が一点に絞られた。あの戦いを境に、松平元康は忽然と姿を変えたのではないか。


 永禄3年(1560年)、織田信長の奇襲により、海道一の弓取りと謳われた今川義元が討たれた桶狭間の戦い。この歴史的な大事件は、今川家の人質であった松平元康(後の家康)の運命をも大きく変えた。彼は主君を失った混乱に乗じて今川家から独立し、故郷である三河・岡崎城へと帰還を果たす。これが、後世に伝わる徳川家康の天下取りの第一歩である。

 しかし、と源次は思考を深める。

 歴史研究家として、ごく一部で囁かれる異説があった。「世良田元信説」と呼ばれるその仮説は、あまりに荒唐無稽なため学会では一笑に付されるものであったが、その内容はこうだ。――本来の松平元康は、桶狭間の混乱の中で、あるいはその直後に命を落としていた。そして、その死を隠蔽するため、彼と瓜二つの容姿を持つ「世良田元信」という謎の人物が影武者として立てられ、歴史の表舞台に登場したのだ、と。


 源次の脳裏に、かつて古文書で見た奇妙な一文が蘇る。――「元信、三河にて竜の玉座を継ぐ」。

 もし、この異説が真実ならば? 桶狭間で「松平元康」が命を落とし、その空白を「世良田元信」が埋めたのだとすれば?

 思考が加速する。蹄音は鼓動に変わり、風音は頭脳を研ぎ澄ます合図のように響いた。

 (だとしたら、全てが繋がる……!)


 仮説は急速に肉付けされていった。

 ――火傷の痕。本来の元康にはなかった。死を偽装するため、あるいは別人であることを示すために、新たに加えられた痕跡ではないか。

 ――記憶の欠落。語れないのではない。知らないのだ。元康としての幼少期を。

 ――沈黙の家臣団。彼らは主君個人を守っているのではない。「松平家」という家そのものの存続のため、影武者の秘密を守り通すという血の誓いを立てているのだ。

 ――半蔵の襲名。それこそが、世代を超えてこの巨大な秘密を守り続けるための、諜報機関のシステムそのものではないか。


 点が線に、線が面に。積み木のようにばらばらだった情報が、今、壮大な構図を形作っていく。

 (そうか……徳川家康は、一度死んでいるのだ)

 源次の胸に戦慄が走る。疑念ではない、必然の結論として。

 (間違いない。徳川家康は桶狭間で死んだ。そして今岡崎にいるのは、二代目――世良田元信だ)

 確信の言葉が、胸中で凍りつくように定まった。そして思う。この真実をどう扱うかこそ、自分の戦いの始まりなのだと。


 思考は、即座に次の一手へと移る。

 (この真実は、徳川家にとって致命的な爆弾だ。だが、俺はこの爆弾を爆発させるつもりはない。むしろ、その起爆装置を俺が握る。それこそが、井伊家が徳川と渡り合うための唯一無二の切り札だ)

 (この秘密を盾にすれば、徳川は井伊家をただの『捨て駒』にはできない。直虎様は、覇者の気まぐれに振り回されることなく、領主としての尊厳を保ち続けられる。俺が掴んだのは、歴史の謎の答えだけじゃない。推しの未来を守るための、最強の武器なんだ)


 やがて、前方に見慣れた山並みが現れた。井伊谷――。故郷の大地が、黄金色に染まった秋空の下に広がっている。若武者たちが歓声を上げた。

 その声に交じり、源次は深く息を吐く。

 馬の背の上で、源次は新たな覚悟を固めた。井伊谷の山々は、静かにその決意を迎え入れていた。

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