第118節『家康の言葉』
第118節『家康の言葉』
評定の間には、沈鬱な空気が漂っていた。
香炉から立ちのぼる薄い香の匂いが、かえって緊張を際立たせる。その場にいる者は三人。徳川家康、家老筆頭の酒井忠次、そして井伊家の全権大使・源次である。
源次は正座し、掌を膝に添えて深く頭を垂れたまま、一言を待っていた。
(頼む、帰してくれ! 推しがピンチなんだ! 直虎様を守れるのは俺しかいないんだ! あんたらの家の謎解きより、百万倍大事なんだよ!)
冷や汗が背を伝い、畳へと吸い込まれていった。
「なりませぬ」
最初に口を開いたのは、やはり忠次だった。老獪な声が、香の漂う静寂を切り裂いた。
「井伊殿を今帰すは、あまりに軽率。虎を手塩にかけて育てておきながら、みすみす野に放つようなものでございます。それに――」忠次は細い眼をさらに細め、源次を一瞥する。「井伊家の危機とやら、それ自体が徳川を試す策であるやもしれませぬ」
淡々とした言葉に宿る刃は鋭く、源次の胸を抉った。
(やはりそう来るか……)
源次は心の内で呟いた。ここで下手に反論すれば、かえって「動揺している」と見られる。これは駆け引き。駒はすでに打たれている。あとは盤上の主――家康がどのように動くかだ。
家康は、忠次の言葉を聞いても頷きもせず、扇を手に持ったまま沈黙していた。
(……家康公は考えている。俺をここに留めれば、井伊家は徳川を見限るかもしれん。だが帰せば、俺が掴みかけた『影武者の秘密』が外へ漏れる危険もある……)
源次の脳裏で、家康の計算式が浮かんでは消える。覇者としての損得勘定と、その裏にある人間的な感情。すべてが、あの沈黙の奥で混じり合っているはずだった。
焦燥が全身を焼き、頭の奥で叫びが木霊する。
(直虎様……どうかご無事で。必ず戻ります。この源次、何をしてでも……!)
やがて家康はゆっくりと目を開けた。「忠次」と静かな声が間を裂いた。「そなたの申すこと、もっともである」
忠次の眉が一瞬緩む。だが、家康は続けた。「されど――信じて結んだ同胞の危機を、見捨てるは三河武士の道にあらず」
言葉と同時に、家康の視線が源次を射抜いた。その双眸には、冷徹さと好奇心が奇妙に同居していた。
「そして……」口元にわずかな笑みが浮かぶ。「この面白き男が、故郷の危機を前に、いかなる潮を読むのか――見てみたくなったわ」
忠次が驚きに目を見開く。だが家康は揺るがぬ声音で告げた。「源次、帰ってよし!」
その瞬間、源次の胸に張りつめていた糸が切れた。全身の力が抜け、安堵が波のように押し寄せる。
(直虎様……! 戻れます……!)
忠次は言葉を失ったように沈黙したが、やがて深く頭を垂れた。主君の決断には、もはや逆らえぬ。
数日後。出立の朝、岡崎城の大手門。
見送りに現れた家康は、穏やかな笑みを浮かべていた。
「源次」と、家康は扇を閉じ、腹の底から響く声で言った。「また会おうぞ、潮を読む男よ。次に会う時、そなたがどんな大魚を釣り上げておるか――楽しみにしておるわ」
その言葉の裏に込められた真意。期待か、警戒か。源次には測りかねた。だが、胸に刻まれたのはただ一つ、生きて帰れるという事実だった。
「……はっ!」
深々と頭を下げ、源次は井伊谷への道へと歩み出した。岡崎での時は、ここに幕を閉じた。だが、次に待つのは井伊谷の危機――そして、戦乱という名の荒れ狂う海であった。