第117節『帰還命令』
第117節『帰還命令』
岡崎城の一隅。昼なお薄暗い書庫に、紙の擦れる音だけが響いていた。
源次は机に広げた古文書と地図を前に、眉を寄せている。彼の眼差しは鋭く、ページの上に散らばる文字を追いながら、脳裏では情報の断片がパズルのように組み合わさっていく。
――桶狭間の戦い。それは信長が義元を討った歴史の転換点。しかし、徳川の記録にある「松平元康」の行動には、不自然な空白がある。
「……この数刻の間、元康はどこにいた?」
文献を追うほどに、源次の胸は高鳴った。知識の断片が繋がる感覚。それは研究者にとって血の興奮に等しい。
(この時、もし元康が“入れ替わった”のだとしたら……。本物は討たれ、影武者が歴史を継いだのだとしたら――)
ぞくりと背筋を駆け抜ける震え。核心はすぐそこにある。
同じころ、遠江・井伊谷の評定の間には、焦燥に満ちたざわめきが渦巻いていた。
「北の国境に、武田の軍勢が再び姿を見せました」
中野直之の険しい報告に、家臣たちは一斉に声を上げる。甲斐の虎・武田信玄が、天下統一を目指す西上作戦の準備を始めたのだ。その進路上にある遠江は、まさに風前の灯火であった。
「井伊谷が標的となるやもしれぬ!」
「いや、あれは牽制にすぎまい」
だが、問題はそれだけではなかった。別の家臣が重苦しい声で告げる。
「領内の旧今川方の残党が、村々で密かに集まっております。武田と呼応していると見て間違いございません」
その言葉に場が凍り付いた。井伊谷が抱える危機は、単なる国外からの脅威ではなかったのだ。領内に潜む親今川派の在地領主や浪人たち――彼らは、徳川と同盟を結んだ井伊家を「裏切り者」と見なし、復讐の機を窺っていた。もし北から武田の大軍が攻め寄せれば、彼らはそれに呼応して領内で一斉に蜂起するだろう。そうなれば、井伊家は外と内の両方から敵に挟撃され、ひとたまりもなく滅亡する。
直虎は、膝の上で固く拳を握っていた。冷たい汗が背筋を伝う。
(源次さえいてくれれば……。あの男なら、この二正面作戦という地獄を打開する知恵を授けてくれる。だが、今はいない)
主君としての責任が、彼女の肩に重くのしかかる。
「……源次を呼び戻す」
低く、しかし揺るぎない声が広間に響いた。「わらわ一人の決断では、この井伊を守れぬ。あやつの知恵が要る。急ぎ岡崎へ書状を飛ばすのじゃ」
再び岡崎。書庫の静謐を破るように、障子が音を立てて開いた。「源次殿、急使でございます」
現れたのは酒井忠次。彼は一通の封を持っていた。「井伊谷からの書状じゃ」
(直虎様から……!?)
手渡された封を開くと、直筆の筆跡が目に飛び込んできた。――「そなたの知恵が必要じゃ。一刻も早く帰還されたし」――
わずか数行の文。しかし、その切迫した筆致からは、井伊谷に迫る危機がまざまざと伝わってきた。
「……っ」
息が詰まる。脳裏には先ほどまで追っていた「桶狭間の空白」がちらつく。
(くそっ……! もう少しで謎が解けそうだったのに! だが……直虎様の身にもし何かあったら……!?)
知的好奇心と、推しへの焦燥がぶつかり合う。だが、根源の声が響いた。
(俺は何のためにここへ来た? 謎を解くためじゃない。直虎様を守るためだ! 彼女を失えば、全てが無意味だ!)
源次は大きく息を吸い、目の前の巻物をゆっくりと閉じた。
「酒井様」と、顔を上げ、忠次をまっすぐに見据える。「我が主君が、私を呼んでおります。これより井伊谷へ帰還の許しを賜りたく存じます」
忠次の表情は読めなかった。しかしその沈黙には、何かを量り、試す気配があった。
――果たして、徳川はこの虎の子を素直に帰すのか。
源次の胸に、謎解きの興奮ではない、推しを守るため戦場に戻る覚悟の炎が灯った。答えは、次の一手に委ねられていた。