第116節『忍びの影』
第116節『忍びの影』
城の奥深く、石畳の廊下を抜けた先にある薄暗い一室。源次は酒井忠次に取り次がれ、そこで服部半蔵と対面することになった。
部屋に漂うのは、薬草と土の匂い。畳の冷たさが足の裏に伝わり、背筋を微かに震わせる。半蔵は黒に近い深緑の装束を纏い、頭巾で顔を半分覆っていた。その影の奥で光る鋭い瞳が、まるで獲物を値踏みするかのように、源次の動きを逐一測っていた。
(どうやって家康の過去の調査を依頼するか……。井伊家の防衛のため、という大義名分を使おう。まずは当たり障りのないところからだ)
源次は深呼吸し、声を落として話しかける。「服部殿、井伊家の防衛のため、武田方の内部情報を探りたく存じます。御家のお力をお貸しいただけませぬか」
半蔵は反応ひとつ変えず、淡々と応じる。「承知した」
その声には、喜びも怒りも驚きもない。冷たく平坦で、まるで空気そのものに溶け込むようだった。
(うわ、本物の服部半蔵だ……!かっけえ!でも、なんか前の人と雰囲気違くね?こいつ、全然本心見せねえな!ポーカーフェイスすぎるだろ!)
源次はさらに慎重に、本題へと切り出す。「さらに、殿の御身を守るため、過去に怨恨を持つ者がいないかも調べていただきたいのです。特に、桶狭間以前の……」
半蔵は一瞬、微かに息を止めたように見えた。だが、それは幻だったかのようにすぐに表情を変えず、淡々と返す。「殿の御過去に曇りなし。調べるまでもござらん」
その一言に源次は舌打ちを押し殺し、冷や汗が背中を伝う。目の前の忍びは、ただ情報を遮断するだけでなく、巧みに源次の問いそのものを封じ込めてきた。
(この男……北の砦で会った、あの黒装束の男とは別人だ! 声の高さ、肩幅、そして目の奥の光が違う……!)
歴史研究家としての観察眼が、わずかな差異を見逃さない。北の砦で遭遇した男はもっと野性的で、獣のような気配があった。しかし、この男は氷のように冷徹で、まるで精巧な機械のようだ。
(まさか……『服部半蔵』とは、個人名ではないのか? 徳川の諜報機関の長が代々受け継ぐ、コードネームのようなものだとしたら……? あの時の闖入者が初代、そして今目の前にいるのが二代目……)
思考が加速する。もしそうなら、徳川の闇は、自分が想像していたよりも遥かに深く、組織的だということになる。
(だとしたら、俺が追っていた『影武者』という一つの秘密は、氷山の一角に過ぎないのかもしれない。徳川家の諜報機関全体、そして『半蔵襲名制』という、さらに巨大な謎にぶつかってしまった……!)
源次は深く息を吸い、この場はこれ以上の深追いは危険だと判断し、静かに頭を下げた。「承知いたしました。服部殿、御見識の高さに脱帽です」
部屋を辞する源次の足は、重くもあり、しかし不思議と軽くもあった。新たな謎が頭を支配し、歴史研究家としての血が騒ぐのを抑えきれない。
(この巨大な秘密の城に、俺はようやく足を踏み入れた……!)
冷たい畳、薬草の匂い、そして影のような忍び――全てが、源次の心を昂らせる。彼は絶望ではなく、歴史の闇を覗き込む興奮と、次なる探求への決意を胸に、城の廊下を静かに去った。