第115節『武芸の稽古』
第115節『武芸の稽古』
城内の一角、稽古場の扉を開けた瞬間、源次の胸に緊張が走った。
汗と土埃の匂いが充満する中、木槍の柄が光を反射し、本多忠勝の鋭い目がこちらを射抜く。その人間離れした体躯は、ただ立っているだけで殺気にも似た圧を放っていた。
「平八郎、井伊殿がそなたの武勇を学びたいと申しておる。一差し、稽古をつけてやれ」
酒井忠次の静かな指示に、忠勝は軽く頷き、木槍を構える。
(しまった、これは罠だ! 俺の力量を試すための次の試験……!)
源次は呼吸を整え、漁師として培った体捌きを思い出す。舟の上で不安定な足場に立ち、潮の流れを読む――あの感覚が、ここでも応用できるはずだ。
忠勝の槍が空気を切る音――ヒュオオオ!
土を抉る足踏み、木槍が振り下ろされる衝撃。源次は一瞬たりとも止まることなく、円を描くように体を回転させ、攻撃をかわしていく。
(速い……! 軌道が読めん! だが、大波と同じだ。正面から受け止めず、力を逃がせば……!)
「ガギィン!」と槍同士の打撃音が稽古場に響くたび、土埃と汗の匂いが立ち込める。
(死ぬ死ぬ死ぬ! これ、手合わせじゃなくて殺しに来てるだろ! でも、あの本多忠勝と戦ってる俺、ヤバすぎ……!)
源次の足元は、漁師の勘で沈みゆく舟を踏むように、微妙に体重を移動させ、忠勝の槍の速度と重みを受け流す。その動きは武士の型とは明らかに異質で、忠勝も驚きに目を見開いた。
(ここで無様に負けたら、井伊は舐められる。直虎様の名に泥は塗れない……! 一太刀でもいい、この鬼神に俺の存在を刻みつけるんだ!)
忠勝の槍が一瞬外れた隙に、源次は反射的に身をひねり、背後に回り込もうとするが、すぐさま軌道を変えた槍の柄に脇腹を強打される。
「ぐっ……!」
息が詰まるほどの衝撃。だが、源次の心は折れていなかった。
「……ふん、面白い槍筋よ」
忠勝が初めて口を開いた。その目は以前の侮りを失い、興味と評価が混ざった光を宿している。
戦いは数十合続き、源次の体力も限界に達した。忠勝の渾身の突きが木槍ごと源次の肩を打ち、土埃と共に背後に吹き飛ばされる。畳の床に叩きつけられ、呼吸が止まりかける。完全な敗北だった。
それでも、源次の目には興奮と達成感があった。敵将の本気を前に、己の漁師の技が一瞬でも通用したという実感――それは知略では得られない、武の手応えだった。
忠勝は槍を収め、源次を見下ろして吐き捨てるように言った。「武士の槍ではないが、なかなかに粘りおるわ」
その一言が、源次にとって最大の賛辞だった。痛みと疲労が全身を支配する中、胸の奥に確かな手応えが走る。
稽古場の隅で見守っていた酒井忠次は、源次の予想外の善戦に目を細めた。
(なるほど……知略だけでなく、武の素養もあるか。面白い)
源次は地面に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。敗北の中に、次の一手への希望と覚悟を感じながら。彼の目には、武と知の両方で徳川家にその存在を刻む決意が光っていた。