第114節『酒井忠次の懐』
第114節『酒井忠次の懐』
城内の廊下を歩く源次の足音が、畳の間に静かに響いた。
ここまでの情報収集は、全て失敗に終わった。老臣も若武者も、侍女も馬番も――誰一人として「桶狭間以前」の家康を語ろうとはしなかった。
(ならば……直接、頂点に立つ者に会うしかない。酒井忠次。家臣団の指揮を取り、この沈黙の壁を統制している男。ここに全ての鍵がある……!)
決意を胸に、源次は酒井忠次の居室へと足を運んだ。戸を開けると、部屋は質素ながら整然とし、白檀の香が淡く漂っている。
「おお、井伊殿。よくぞ参られた」
酒井忠次は、にこやかに立ち上がり、源次を迎える。微笑は柔らかいが、その奥の目は全く笑っていない。深く澄んだ光が、源次の動きを全て読んでいたかのように感じられた。
(完全に読まれている……! 俺の行動は、この男の掌の上か!)
酒井は座布団を勧め、自ら茶を点て始めた。茶筅で茶を掻く音だけが静寂を切り裂く。
「して、この老いぼれに何か御用かな?」
酒井の声は穏やかだ。だが、その裏には源次の意図を見透かしたような響きがあった。
(この男から情報を引き出すには、正面からの質問は無意味だ。無知を装い、教えを乞う形が最も安全……)
「いえ、徳川様の強さの源泉を学びたく存じます。特に、殿が今川家から独立なされた頃の御苦労話などを、ぜひお聞かせ願えればと……」
酒井は穏やかに頷き、茶筅を置いた。
「なるほど、学びたいと申すか。若い衆が口の堅いことに苦労しておるのを見かねて、さぞや熱心に問うておるのであろうな」
(うわー、ラスボス感半端ねえ! このジジイ、絶対全部知ってるだろ! 笑顔が怖すぎる!)
酒井は家康の武勇伝や戦略を語り始めたが、その全ては「桶俵間以降」の話に限られ、源次が最も知りたい幼少期の話題は巧みに避けられた。
(駄目だ……この男、鉄壁すぎる! どんな球を投げても、柳のように受け流される。俺の知略など、この老獪さの前では子供騙しか……!)
数刻のやり取りを経て、源次は静かに悟った。このままでは何も引き出せぬ。
そこで、源次は思い切った行動に出た。畳に手をつき、深々と頭を下げる。
「酒井様。参りました。この源次、完敗にございます」
酒井が驚きに目を見開く。
「どうか、この未熟者に、徳川の『強さ』の何たるかをご教示ください。殿の客分としてではなく、酒井様の『弟子』として、一から学ばせてはいただけませぬか!」
その瞬間、空気が微かに変わった。酒井はしばし黙し、目の奥に面白い玩具を見つけたような光が宿る。
源次は、その視線に捕らえられながらも、胸の奥で微かに勝利の兆しを感じた。
――敵わぬ相手には従うふりをして懐に潜り込む。これこそ、源次の起死回生の一手だ。
静寂が再び部屋を満たす。茶の香と白檀の香が交じり、まるで時間が止まったかのようだ。
(勝てない……だが、負け方を逆手に取り、次の行動の糸口を掴んだ……!)
源次は、次なる道を模索しつつ、静かに酒井の返答を待つのみだった。