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第113節『鉄壁の秘密』

第113節『鉄壁の秘密』

 岡崎城の庭は、秋の陽射しを受けて眩しく輝いていた。

 紅葉しかけた木々の間を風が通り抜け、庭石に散った葉を揺らす。その静けさの中、老臣が腰をかがめ、黙々と草を抜いていた。源次は、ゆるりと歩を進める。

 (まずはこの老臣だ。年の功ゆえ、油断すれば幼少のみぎりの逸話が口を滑らすかもしれん)

 「いやはや、見事な庭ですな」

 声をかけると、老臣はゆったりと顔を上げ、皺の奥に穏やかな笑みを浮かべた。「おお、井伊殿。これはこれは……」

 源次は軽く笑みを返し、さりげなく切り出す。「殿は若くしてこれほどの城と国をお治めになっておられる。さぞ、ご幼少のみぎりから傑物であらせられたのでしょうな」

 一瞬。老臣の目が細くなった。だがすぐに柔和な笑みに戻る。

 「さて……儂のような下働きには、殿の幼き頃のことなど存じませぬ。殿はいつの世も、殿であられる。それで十分にござる」

 その声は柔らかい。だが笑みにも声にも、不思議な温度の欠落があった。

 (嘘をつけ。この皺、この背筋――お前は松平の興亡を全部見てきただろう。知らぬはずがない!)

 額に汗が浮いた。草いきれの匂いの中で、源次の鼻腔には別の臭気が漂うように感じられた。――秘密を守るための、冷たい鉄の匂い。


 次の標的は、稽古を終えたばかりの若武者たちだった。槍を抱えて土間に腰を下ろし、湯気の立つ酒を酌み交わしている。

 源次は笑顔をつくり、手ずから徳利を差し入れた。「いやあ、見事な槍さばきでござった。殿が今川より独立された折の奮戦ぶり、誠に目覚ましきものと聞き及んでおります。その頃よりお仕えなされた者も、おられるので?」

 若武者たちは口々に笑った。「殿は稀代の英雄にて!」「三河の地をまとめられたお力は、誰にも及びませぬ!」

 だが――。源次が「桶狭間の後」の話題を振った途端、笑いは途切れた。

 沈黙。視線を交わし合った後、全員が同じように言う。「某らが仕え始めたのは、それより後にござれば……」

 一人残らず。声色も抑揚も、まるで同じ脚本をなぞるかのように。

 (おかしい! 全員が同じタイミングで口を重くする……。これは偶然じゃない。絶対に“そこから先は語るな”と厳命されている!)


 その後も源次は手を変え、品を変えた。侍女に茶を運ばせながら、何気なく尋ねる。「殿はお子に恵まれ、ご家族に囲まれておられる。幼少のみぎりから、御心優しい方であったのでしょうな?」

 侍女は微笑んで首を振る。「私はここに参じて日が浅うございますゆえ……」

 馬番に水桶を手伝いながら尋ねる。「殿は若き頃より馬を好まれたと聞きます。どの馬を最初にお乗りに?」

 馬番は淡々と答えた。「殿はどの馬にお乗りでも、馬が殿を慕います。それだけでござります」


 ……同じだ。どこへ行っても、答えは皆、違えど同じ。笑顔の奥に、一瞬だけ鋭い影を宿し、その後は完璧にかわす。

 源次は夜、自室に戻った。畳の上に仰向けになり、天井を睨む。

 (駄目だ……この城の者たちは、全員が秘密の共犯者だ。一枚岩すぎる。正攻法では、この壁は崩せない……!)

 額を伝う汗が、冷たく頬に流れた。

 (だが……逆に確信した。桶狭間以前の殿の過去――そこにこそ、影武者の真実がある! 直虎様を守るためにも、井伊家を存続させるためにも、ここで諦めるわけにはいかん!)

 心臓の鼓動が、静寂の中でやけに大きく響く。鉄壁の沈黙。それを守るのは、徳川という巨大な組織。源次は暗がりの中で目を閉じ、唇を噛みしめた。

 (正攻法は通じぬ……人の口が駄目なら、物言わぬ『紙』を相手にするまでだ。書庫にある古文書、日誌、書状……。そこには、人の口ほど固くない真実が眠っているはずだ)

 闇の底で、決意だけが燻り続けていた。新たな標的は定まった。彼の戦いは、まだ終わらない。

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