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第112節『四天王の片鱗』

 稽古場の空気は、まるで戦場の縮図だった。

 砂地を踏み鳴らす音、木槍が風を切る音、打ち合う衝撃で弾ける乾いた響き。若い武士たちが必死に槍を繰り出しているが、その全てを真正面から受け止め、弾き飛ばす一人の巨漢がいた。

 「来いッ!」

 咆哮と同時に、彼が手にする長槍――蜻蛉切が唸りを上げる。穂先が空を裂き、並み居る若武者をまとめて吹き飛ばした。

 源次は思わず息を呑む。

 (うおおお……! これが本多忠勝! 書物の誇張どころか、目の当たりにすると常識を超えている!)

 槍が振るわれるたびに空気そのものが揺れ、体の芯まで圧が突き抜ける。忠勝は額から汗を滴らせながらも、呼吸一つ乱れない。稽古が終わると、蜻蛉切を肩に担ぎ、源次の存在に気づいた。

 「……使者殿、見ておったか。言葉だけの戦では、この槍は止められんぞ」

 挑発とも警告ともつかぬ響きに、源次は一歩も退かず応じる。「心得ております。戦場で貴殿を敵に回す者こそ、言葉を失うでしょうな」

 忠勝の目に、一瞬だけ愉快そうな光が宿った。


 その場に、涼やかな声が割り込む。「平八郎、客人を脅すな」

 切れ長の目、引き締まった頬、理知的な空気を纏った青年――榊原康政であった。

 「……榊原康政、殿の近習を務めております」

 康政は深々と一礼する。礼儀正しいが、その眼差しは刃のように鋭く、源次を値踏みしている。

 (この目……冷静で、隙を探っている。忠勝の豪胆さとは対極だな。知略の人、その片鱗がすでに滲んでいる)

 榊原康政は、源次に一礼すると、忠勝に短い言葉をかけた。その時、源次の視界の端を、近くの建物の陰から現れ、康政に目配せをして去っていく忍びらしき影が横切った。一瞬だったが、その背格好は、以前、北の砦で新太との間に割って入った、あの黒装束の男とは明らかに違う。

 (…今の男、誰だ? 徳川の忍びか? だが、あの時の闖入者とは体つきが違うような…。もしあの時の男が服部半蔵で、この男もまた徳川の忍びならば……)

 源次は、その些細な違和感を一度は打ち消した。だが、その記憶は、彼の脳裏の片隅に、小さな棘のように引っかかり続けることになる。

 康政は、そんな源次の視線の動きには気づかぬまま、静かな声で続けた。「徳川の槍は力にあらず、知に拠るべし――。我らが殿は、常にそう仰せです」

 その言葉に、源次の背筋が粟立つ。


 そこへ、もう一人の影が差した。「――井伊の者、と聞いたが」

 まだ声変わりも済んでいない、澄んだ声。赤みの差す美貌の少年が立っていた。井伊万千代――後の井伊直政である。

 (井伊万千代…! 直親様の一子にして、井伊家正統の後継者。史実通りなら、井伊家本体とは別に、数年前から家康公に小姓として仕えているはずだ。直虎様が俺を徳川へ送ったのも、彼との連携を考えてのことかもしれん…!)

 「井伊の名を背負う者が、なぜそのような漁師上がりの風体で? 我が家の名を貶める真似は、断じて許さぬ」

 刺すような言葉に、源次は思わず苦笑を浮かべる。

 (うわ、出た! 後の赤鬼・井伊直政! 美少年だけど、めちゃくちゃ棘があるな! うちの直虎様とは正反対のギラギラ系!)

 (なるほどな。本家の使者である俺が、直虎様や家康公に重用されているのが気に入らないか。若いが、プライドは相当に高い)


 忠勝、康政、万千代。性格も年齢もばらばらな三人が揃った時、源次は圧倒的な違和感を覚えた。彼らは皆、家康の名が口にされるときだけ、一様に瞳に熱を帯びるのだ。

 「殿のためならば、我が身は惜しまぬ」

 「殿の軍略に従う限り、勝機は必ず見える」

 「殿の御傍で仕えること、それこそ井伊の誉れ」

 言葉は違えど、その忠誠は常軌を逸しているほど純粋で、狂信にも似ていた。

 (おかしい……これは普通の忠義ではない)

 源次は試みに口を開いた。「そういえば、殿のご幼少の頃は、どのようなお姿で?」

 次の瞬間、稽古場の空気が凍りついた。忠勝の笑みが消え、康政は目を伏せ、万千代でさえ口を閉ざす。

 重苦しい沈黙が、土埃の匂いより濃く漂った。

 (やはり……。彼らは“過去の家康”を語らぬ。語れぬのか、語らぬのか……。だがその沈黙こそが、彼らの結束の源。秘密を守るための誓約……!)

 背筋に冷たい汗が伝う。

 (徳川家臣団は、強すぎる……。だがその強さは、ただの忠義ではなく、恐ろしい秘密を共有しているからこそ生まれているのだ)

 夕暮れの稽古場に、三人の若き武将の影が長く伸びる。その姿は、未来の“四天王”の片鱗であり、同時に徳川という巨大な謎を覆い隠す影でもあった。

 源次はその壁の高さに圧倒されながら、唇を噛んだ。

 (だが必ず、この秘密を暴く。あなたを守るために――直虎様!)

 稽古場の喧騒が遠ざかる中、源次の決意だけが、静かに胸の奥で燃え続けていた。

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