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第111節『岡崎城の日々』

第111節『岡崎城の日々』

 城内の廊下は、朝の冷気を吸い込んでひんやりと湿っていた。

 源次は草履の底から伝わる冷たさに身を震わせながら、監視役の武士と並んで歩いていた。男は酒井忠次の腹心の一人と聞いていた。眉間に深い皺を寄せ、歩調一つ乱さぬ。

 (うわ、毎日この人とお見合い散歩コースかよ。ストレスで胃に穴が空くわ!)

 それでも、源次は笑みを崩さない。「ええ、軍記物を拝読するのが、いまや一日の楽しみでして」

 監視役は表情を動かさない。が、歩く足音がほんの少しだけ緩んだように聞こえた。


 文庫に足を踏み入れると、空気は一変した。昼間でも薄暗く、木の棚に積まれた巻物や冊子が影を落とす。鼻を刺すのは、乾いた紙と墨の匂い。

 (うおっ……これは本物の「松平記」……! マジでサイン欲しいレベル!)

 興奮を内心で爆発させながらも、表情は静かに保つ。筆を持ち、真剣な眼差しで巻物を開く。そのすぐ横で、監視役が息を殺し、じっと彼の手元を見ていた。

 (この監視役は実直な男だ。武具や戦の話を振れば、心の隙を作れるかもしれん)

 源次はあえて筆を止め、口を開いた。「ところで――貴殿、槍の稽古を好まれると聞きましたが」

 武士の眉がぴくりと動く。「……まあ、嗜む程度には」

 (よし、ちょっと緩んだ!)

 源次は心中でガッツポーズを取りつつ、再び巻物に目を落とした。そこには、桶狭間の戦いの記録が記されていた。

 (おかしい……この記録、義元の死を知る前と後で、元康――つまり家康殿の人物評が微妙に違う。前は「臆した」とあるのに、後は「勇を奮う」と。意図的に書き換えられたとしか思えん……)


 数日後、源次は家康に呼び出された。

 「源次」と、低く楽しげな声が響く。「そなた、川中島の戦の記録を読んだであろう。もしそなたが謙信、あるいは信玄であったなら、いかなる采配を振るう?」

 (きた……軍略クイズか! 下手答えると命に関わるやつ!)

 歴史オタクとしての血が騒ぐが、その昂ぶりの奥には別の炎があった。

 (直虎様……この機会を逃すまい。どんな小さな情報も、あなたを守る力に変えてみせる!)

 「もし私が謙信ならば……敢えて夜陰に紛れ、信玄本陣を突くでしょう。逆に信玄であれば、兵を小さく分けて囮を仕掛け、謙信を誘い込みます」

 家康の目が細められた。「面白い。……書物を読み、ただ知識を得るのみならず、己の思考に繋げるか」

 その声音には、試す者の愉悦が混じっていた。


 日々はそうして流れていった。源次は監視の目をかいくぐることなく、あえて「学問好きの客分」として振る舞い続けた。

 しかし、その積み重ねの中で、彼は一つの奇妙なことに気づき始める。

 (徳川家臣団の者たち……皆、殿を「殿」と呼ぶ。だが……)

 ふとした折、幼少期の話題を振ってみる。「殿は、幼き頃より学問に励まれたと聞きますが」

 その瞬間、相手の口が固く閉ざされる。話を逸らされる。別の武士に尋ねても、同じ反応だった。

 (これは……まるで家臣全員が、巨大な秘密を共有しているようだ)

 額に汗が滲む。

 (彼らは「徳川家康」という存在を守っている。だが、それは人物そのものではない。「徳川家康である」という“設定”を守っているんじゃないのか……!?)

 胸の奥でざわめく感覚に、思わず喉が鳴った。

 (この城全体が……何かを隠している。俺は、その壁の前に立ったんだ)

 文庫の窓から差し込む夕日が、巻物の背表紙を赤く染めていた。それはまるで、隠された真実の血の色のように、源次の瞳に焼き付いた。

 ――岡崎城の日々は、ただの軟禁ではなかった。そこには、徳川家の存在そのものを揺るがす秘密が眠っていた。源次はまだその扉の前に立ったばかりである。

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