第110節『直虎への報告』
第110節『直虎への報告』
障子の隙間から、秋の淡い光が差し込んでいた。
源次は文机に肘をつき、目を細める。墨を摺る香りがかすかに漂い、空気を乾いた黒色に染め上げてゆく。だが、硯に筆を落とすことはまだしなかった。
――返事が来ない。「書物を読みたい」という、あの一言を口にしてから、すでに二日。部屋の障子の外には相変わらず二人の見張りが立ち、廊下を往復する足音は増えた気がする。
(酒井忠次は絶対に反対しているはずだ。俺が書庫に入るなんて、奴らにとっては虎の穴に狐を入れるようなものだからな)
心臓がどくりと跳ねる。
(にしても……待たされすぎだろ! 胃に穴が開くわ!)
だが、胸の奥にある根源的な動機だけが揺るがない。
(直虎様……必ず、無事だと知らせたい。この状況を、希望に変えて伝えたいんだ)
三日目の昼過ぎ、廊下に重々しい足音が響いた。戸が開き、現れたのは家老筆頭――酒井忠次その人であった。
「殿は、そなたの望みをお聞き届けになった」
源次は一瞬、安堵の息をつきかけたが、酒井の目の奥に笑みはなかった。
「ただし――条件がある。書庫への立ち入りは認めるが、常に我が配下を同伴させること。閲覧できるのは松平家の軍記物に限り、日誌や書状の類には一切触れさせぬ」
(やっぱり……ガチガチに縛ってきたか! だが、ゼロ回答よりははるかにマシだ)
「さらに――井伊谷へ、同盟成立の報告を送ることを許す。ただし、文はすべて我らが改める」
酒井の声は冷えきっていたが、その言葉は源次の胸に熱を点した。
(よし……! 手紙を出せる! これで直虎様に生存報告ができる!)
源次は深々と頭を下げた。「重ねてのご配慮、かたじけのう存じます」
その夜、文机に向かう源次の前には、硯と白い和紙が置かれていた。
(さて……どう書くか。井伊谷を不安にさせてはならない。だが、真実を隠しすぎても、嘘の匂いは伝わる……)
表面の思考が冷静に計算を続ける一方、胸の内では叫びが渦巻いていた。
(うわー、緊張する! 絶対検閲されるって分かってるから、変なこと書けないし! くそ、ラブレターの初稿より悩むわ!)
だが、最後に彼を突き動かしたのは別の衝動だった。
(直虎様……必ず伝える。この命が、あなたを守るためにここにあると!)
筆先が和紙を滑る。
――井伊谷殿下、此度、三河にて同盟相成り候。拙者、徳川殿の客分として厚遇を受け、日々無事に暮らし候。御地におかれては何卒ご安堵あられたく候。
当たり障りのない言葉を連ねつつ、行間に忍ばせる。「厚遇」の裏に軟禁という真実を。「日々無事」の影に危険な駆け引きを。そして、最後の一文に、二人だけにしか分からない合言葉を込めた。
――姫様、潮は三河にありました。この源次、必ずや大漁で井伊谷へ戻りまする。
筆を置いた瞬間、肩から力が抜けた。
(よし……これでいい。『潮』も『大漁』も、俺たちが初めて策を練った佐久間川の戦いを思い出させる言葉だ。直虎様なら、この言葉の裏に込めた『私は今、徳川という巨大な魚の急所を狙う、新たな漁を始めました』という真意を必ず読み取ってくださる)
手紙は、酒井の検閲を経て、井伊谷から来た使者の手に渡った。去っていく背中を見送りながら、源次は唇を引き結ぶ。
――これで第一関門は突破した。
だが同時に、徳川の監視はさらに厳しくなるだろう。それでも、心は折れない。
(直虎様。俺は必ず、この城の秘密を暴き、あなたを守る力を掴んでみせます……!)
静まり返った部屋に、墨の残り香だけが漂っていた。源次の孤独な戦いは、まだ始まったばかりである。